ケチ子おばさんの空色ハット

山歩き 街道歩き その他お出かけの記録

満足度120% 年に一回の自分へのご褒美プレゼント

 

おばさんの年齢になったころより、
一年に一度、年末の時期(自分の誕生日もあるのですが)になると、自分が欲しい物を買おうと心に決めています。

 

自分の人生は、とっくに後半戦に突入しているので、
一年に一回の自分へのご褒美も、あと何回あるのかと考えると、20回あるかな?
そう思うと、遠慮なんてしないでも良いと気が付きます。

昨年は、大好きな富士山へドライブする一日を過ごしましたが👇

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今年は、これと言って欲しい物がないなと思っていたのですが、
欲しい物が見つかってしまいました!

それは、です。
お値段は3万円。

どう考えても、三万円の石と言えば、
水晶やらを思い出しそうで、
何かの信仰に浸ってしまったのではないかと思われそうなのですが、
そうではなく、

 

買ったのはこちら👇

 

トンネルの貫通点で記念に採取された石なのです。

 

どこのトンネルかと言うと

1、リニア新幹線のトンネル

実は、リニア新幹線が好きです👇

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リニア新幹線は世紀の大工事です。

日本には東海道新幹線がすでに開通していますが、開通したのは1964年で、すでに60年物歳月が経っており、日本の大動脈の1つとして大活躍しているのですが、欠点の1つは線路にカーブがある事です。
江戸時代に整備された東海道に沿うように海沿いを走る東海道新幹線に対し、リニア新幹線は日本列島の内陸部を走り、山を貫くように直線的に走り抜けるように造られており、速度が出せる構造になっています。
2027年に名古屋駅までが開通、2045年には新大阪駅まで開通予定であり、静岡県が工事の反対をしている事がありますが、何とか開通すれば、おばさんの私でも生きている間に乗れそうです。楽しみです。

名古屋に行く用事はありませんが、リニア新幹線に乗りに行きたいと思っています。東京‐名古屋間は約40分。残りがだんだん短くなっていく人生に悔いが無いように、40分間を含むリニア新幹線の旅の時間に、自分の時間を使いたいと思っています。

山梨県 リニア実験線

2、山梨県南アルプスの前衛にあるトンネル

私は、趣味で登山をします。どこの山も好きなのですが、南アルプスももちろん好きなのです。その、南アルプスリニア新幹線は突き抜けるように進みます。

今回購入した石は、第一南巨摩トンネルという、山梨県富士川町にあるトンネルです。トンネルばかりを走るリニア新幹線甲府盆地に出て少し走った後、南アルプスに向かって最初に入っていくトンネルなのです。

つまり、リニア新幹線に乗れることが出来た時、この石が採れたトンネルと、非常に分かりやすいのではないか。そして、このトンネルを最初にして、大好きな南アルプスに向かっていくのです。素晴らしい!

そして、リニア新幹線の東京品川~名古屋間、総延長286㎞の内、山梨県内の実験線を除いて、本線トンネルとして初めて貫通したトンネルなのです!

甲府盆地から眺める南アルプス

3、どうしても欲しかった!

たかが石1つに三万円と言う破格の価格ですが、

実は、ふるさと納税の返礼品です。

事実上、2000円になる予定なのですが、それでも、2000円の石を買う?と言う素朴な疑問が出てくることもあるかもしれません。

しかし、私自身は欲しいです!

自分が生きている間で一番大きな工事であり、その、リニア新幹線に寄せる夢や思い。私にとって特別な思いがあります。

たかが石ですが、されど石なのです。

私が満足するものを買うと決めている年に一回の買い物なので、これほど、ベストな買い物は無いと思っています。

誰になんと言われようと、私はこの石は欲しかったのです!

だから、とっても満足しています。

そして、この先にもトンネルは掘り進みます。

もし、チャンスがあれば、南アルプストンネルの貫通石も欲しいな、とも思っています。マニアでも、ニッチでも、マイノリティでも良いじゃないか。

 

トンネル大好き、リニア大好き、南アルプス大好き、石も好き

それが私です!

南アルプス山脈と富士山

 

東海道①前編 日本橋~品川宿

江戸時代に造られた五街道と聞くと、一番最初に頭に浮かぶのは「東海道」である人が多いと思う。私にとっても、東海道新幹線東海道線など、東海道は馴染みがある言葉です。

東京に住んで25年にもなりますが、都内でも色々な場所があります。
その中で、私が住んでいる地域は、甲州街道中山道に近い事もあり、東海道や神奈川県にあまり縁がありませんでした。なので、五街道歩きをして初めても中山道甲州街道から歩きはじめていました。

しかし、街道歩きと聞くと「東海道」を思い浮かべる人が多いのではないかと思いなおし、それではと、東海道も歩きはじめることにしました。

旅の始まりは江戸東京日本橋

五街道の中で日本橋から出発し京都三条大橋に向かう三街道は、東海道中山道、途中に中山道に合流する甲州街道です。いづれも京都の三条大橋に向かうというイメージがあるので、西に向かうと思ってしまいます。
甲州街道だけは、日本橋を出発して皇居の周りを半周したら、西に向かって進んで行きますが、東海道中山道は違っていました。

東海道日本橋を出発すると南へ向かい、中山道は北に向かって歩きはじめます。日本橋を出発して、同じ京都の三条大橋に向かうのに、お互いに背中合わせで進んで行くという、なんだか変な感覚になってしまいます。
そんな状況の中、中山道では周辺地域に馴染みがあったこともあり、何とか頭の中の地図と確認しながら歩き進めたのですが、馴染みのない東海道では頭の中に地図もなく、どうしても西に向かっていくという固定概念にもとらわれてしまい、何度も大きく道間違いをしてしまっています。それゆえに、実際に歩いた距離は長くなり、時間も長くかかってしまっており、何だか心がへこんでいます。

とはいえ、このblogを書いている今の時点では藤沢宿まで進んでいるので、この先もう少し頑張って相模湾沿いに歩くようになれば、東海道はイメージ通りに西に向かって進むようになるので、無事に歩き進めると良いなと思っています。

東海道を歩いている際の道間違いは、あまりにも大きく間違っており、とても恥ずかしいので、私が使っているYAMAPの軌跡では修正しています。

日本橋から品川宿

日本橋を出発すると東海道甲州街道は南に向かって歩きはじめます。甲州街道は歩きはじめてすぐに右(西)へ曲がりますが、東海道はそのまま南へと進み、京橋から銀座の大通りへと向かいます。

当時から交通量が多かった東海道ですが、現在でも銀座、浜松町と都市化が進んでいる街を抜けていくので、江戸時代の面影を残すような建物や史跡などは残っておらず、都心のビル街を抜けていきます。
そんな東海道の始まりですが、江戸時代の後の近代化に伴って変わる街の様子を残しているモニュメントは所々残されています。

文明開化のシンボルとして銀座に建てられたレンガ建築のガス燈

銀座発祥の地(銀座二丁目)

新橋の名前の由来になったのが、汐留川に架けられていた「新橋」。その親柱が残されている。現在では川は埋め立てられて橋ありません。

新橋の親柱(港区新橋1丁目)

旧東海道である国道15号とゆりかもめ新橋駅

東海道新幹線のすぐ脇にある日比谷神社

旧東海道である国道15号(第一京浜)から見える東京タワー

新橋を抜けて浜松町のあたりに来れば、東京タワーが近いのですが、国道15号の脇にはビルがたちならんでいるので見える場所が無いと思っていると、ちらっと見える場所がありました。
この先の三田まで行けば、東京タワーのビュースポットがあるのですが、この時はそれを知らずに1人で東京タワーを見れたことを喜んでいました。
東京に住んでいても、東京タワーを見れる場所がそんなになく、わざわざでかけないと見れないのが東京タワーだったりします。

1里 金杉橋の一里塚(当時からなかったとも言われている)

東海道に造られた一里塚で最初の一里塚は金杉橋と言われていますが、当時からなかったとも…。
麻布十番から芝公園の脇を沿うようにして東京湾に流れる古川は、当時の絵図と同じ場所を流れており、その川を旧東海道である国道15号が渡る橋が金杉橋として残っています。資料などはありませんが、恐らくこの辺りが江戸から一里であったと思われます。

屋形船が泊まている古川。金杉橋より撮影 上を走るのは首都高都心環状線(C1)

金杉橋児童公園(南側)、トイレ、水道あり

札ノ辻交差点と東京タワー

国道15号(第一京浜)にある札ノ辻交差点は、その名前からも江戸時代を思わせられます。札ノ辻は、江戸内に造られた6か所の高札場の1つでしたが、1683年にこの先にある高輪に移動されました。

旧東海道はまっすぐ先へと続いていますが、この交差点からとてもきれいに東京タワーが見えます。

札ノ辻交差点の向こうに東京タワー(少し下がった橋の上より撮影)

高輪大木戸跡

高輪大木戸跡(港区高輪2丁目)

 

江戸時代中期の宝永7年(1710年)に建てられた木戸(門の様な物?)であり、夜間は占められて江戸の町の治安維持と交通規制をしていました。
札ノ辻にあった高札場が移転されたのがこの場所であり、江戸六大高札場(日本橋南詰、常盤橋外、浅草橋内、筋違橋内、半蔵門外)の1つでした。
江戸時代後期には木戸が廃止されており、この場所には石垣が残っていますが、甲州街道に造られた四谷大木戸跡は何も残されていなく石碑があるのみです。

参考)甲州街道、四谷大木戸跡の石碑

山手線に新しく出来た品川ゲートウェイ駅前の工事中を通りすぎ、品川駅を通り過ぎた先で、JRの線路の上に架かる八ツ山橋を渡ります。
八ツ山橋は、ゴジラが最初に上陸?した場所であり、最初に破壊した公共建造物とも言われています。実際は沢山のJRの線路に架かる橋であり山手線、京浜東北線東海道線等が走っており、電車が好きなら立ち止まって見ていたい場所でもあります。新幹線はこの先の品川駅手前で地下に入るそうなのですが、かろうじて車両の一部を見る事が出来るようです。たぶん。

二里 品川・八ツ山の一里塚(当時からなかったと言われている)

東海道の二番目の一里塚は品川・八ツ山の一里塚とありますが、この一里塚も当時からなかった記録があるそうです。
八ツ山の地名は、この辺りに張り出している岬が8あったことに由来しているので、正確な場所は解らないですけれど、この辺りが二番めの一里塚の場所であったと思います。

写真を撮り忘れてしまっていますが、品川宿の街歩きマップや東屋、トイレに水道もあるので休憩に便利です。また、品川宿に入っても街道沿いに公園やトイレ、水道が何か所か整備されています。

1、品川宿

東海道最初の宿場は品川宿です。江戸から二里と言う程近い距離でもありましたが、江戸の玄関口でもあり賑わった宿場でもありました。

本陣1、脇本陣2、旅籠93

江戸まで二里と言う近さである為か、ここに停まる大名が少なかったのか本陣は一軒しかありませんが

品川宿の旅籠が93と多かったのは江戸四宿(中山道:板橋宿、甲州街道内藤新宿日光街道千住宿)の1つであり、飯盛り女が多く賑わったとあります。
当時の記録では、板橋宿の旅籠が54軒、千住宿が55軒、内藤新宿の旅籠が24軒であり、品川宿の規模の大きさが良く分かります。
宿場の大きさだけを比較するならば、東海道の七里の渡しにある宮宿が247件で最大の規模であり、同時に日本一の宿場でもありました。

品川宿本陣跡

現在の品川宿は長い商店街になっていますが、史跡跡には説明版が立てられており、公園やトイレも整備されており、歩きやすい街になっています。

街道松の広場 ベンチ、水道あり

お稲荷さんとおにぎり、のり巻きで軽食を食べて休憩

江戸六地蔵 品川寺

江戸時代、江戸の入り口に「江戸六地蔵」が作られ、その一つが旧東海道沿いの品川寺にあります。
当時六体造られたお地蔵様ですが、千葉街道入り口に造られたお地蔵様は明治の神仏分離令で取り壊されてしまったので、現在残っているのは5体です。東海道入り口のお地蔵様は、その中でも像高が一番大きく2.75mあり、唯一、頭に笠をかぶっていないお地蔵様です。

東海道品川宿にある江戸六地蔵

左上)甲州街道、右上)水戸街道、左下)中山道、右下)東海道日光街道写真なし

なみだ橋と、鈴ヶ森遺跡

幕府は、江戸の町の外れの二か所、東海道鈴ヶ森と日光街道千住宿外れの小塚原に処刑場を造りました。
処刑者の家族は、鈴ヶ森の手前にかかる浜川橋まで見送りにやってきて、涙を流して別れた為、浜川橋はなみだ橋と言われるようになりました。

なみだ橋(浜川橋)

 

鈴ヶ森処刑場では白井権八や、八百屋お七等、当時の演劇などで演じられたものも処刑されたと言われています。

鈴ヶ森刑場遺跡
左)八百屋お七の供養のために建てられたほうろく地蔵(中山道沿い文京区大圓寺
右)権八が悪事を誰にも言わないでくださいと頼んだ権八地蔵(中山道沿い埼玉県鴻巣市

秩父三十四観音霊場巡り 30番、31番、32番

秩父三十四観音霊場巡り 五回目

前回の4回目は、約2ヶ月前の6月末でした。真夏の暑さの中の札所巡りになりましたが、夏の緑色が濃い自然の中を歩くのが気持ちが良かったです。
まだ、涼しくはなっていませんが、今回が終了すると、最後の札所巡りになってしまいます。少し寂しいのですが、せっかくだから結願は秋の紅葉シーズンにしようかと思っています。

秩父札所巡りでは、歩き進むと札所間の距離が長くなってきます。中でも、30番と31番の距離が18㎞にもなり、最長の距離です。
そして、この区間には路線バスの運行もないので、途中リタイヤが難しくなります。(タクシーは使えると思いますが…)

札所巡りの計画を立てる時に、30番で終了し、別日に再開するときに31番より歩きはじめるとするのも良いと思うのですが、計画の詰めが甘い私は29番で終了するという進め方をしてしまい、18㎞を歩きぬく事にしました。
もともと、ドライブも好きなので、秩父に来ることもあり、この辺りの道を車で走ったこともあり、距離が長い事は承知の上でしたが、それでも長かったです。

 

Yahoo!ニュース記事はこちら(全4話)👇

news.yahoo.co.jp

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秩父までの交通手段

今までは車で秩父まで行っていたのですが、大学生の子供が何かと忙しくて私の愛車を日常で乗ることが多くなってしまい、今回は電車で行くことにしました。
当日の電車の時間は調べていたのですが、乗ろうとしていた電車に乗り遅れてしまいました。
その記事はこちら(上と同じリンクです)👇

news.yahoo.co.jp

西武線を乗り継いで西武秩父駅に向かおうとしていたを乗り遅れてしまい、途中の所沢駅より特急ラビューに乗り換えて何とか予定していた秩父鉄道の電車に乗ることが出来ました。

特急ラビュー(所沢駅

 

ラビューは乗り心地が良く、大きな窓から車窓を楽しむことも出来てとても快適でしたが、飯能駅で列車の前後が逆になるのにびっくり👀しました。
この経験は貴重かもしれません。

ラビューに乗ることで、予定していなかった特急料金(西武秩父駅所沢駅間、大人1人)600円が必要になりました。
600円と言う金額自体は安く無いですが、600円以上の快適さと便利さがあり、ケチな私のお金の使い方について考えるきっかけになり、快適さにお金を使うのも良いと学びました。

西武秩父駅まで、特急ラビューで慣れない快適さに戸惑いながらも無事に到着出来、秩父鉄道花畑駅で乗り換えて、今回は札所三十番の最寄り駅である白久駅に到着しました。

西武秩父駅秩父鉄道 白久駅

秩父34観音霊場巡り三十番から三十二番

三十番 瑞龍山 法雲寺

今回の出発した白久駅から札所三十番までは、里山を登っていきますが、15分程で到着します。
真夏の緑が生い茂る山の中腹にある観音堂の建物が自然に馴染んでいました。

小高い場所にある観音堂にお参りをしてから振り返ると、景色は自然そのものです。
向かいに緩やかに広がる緑が濃い里山の尾根、視界入る白っぽい薄いピンクの花は美しく咲き誇り、夏を感じる景色が広がっています。

30番 法雲寺 観音堂からの景色

札所30番お寺の参拝を終えると、ここまで歩いてきた道を引き返し、その後は荒川を渡って県道37号線を小鹿野町に向かうのですが、この札所30番と31番の間の距離が、秩父札所巡りの中で最長の約18㎞にもなります。
日帰りで歩きつないで巡礼するのであれば、この間は日をまたぐように計画すると良いのではと思うのですが、私の場合は、前回の巡礼を29番で終わってまい、もれなくこの区間を歩く事になりました_| ̄|○

荒川を渡る平和橋 県道37号で小鹿野町へ入る

国道140号より県道37号に入ると山を越えて進む、人間社会から取り残されたような自然の中を楽しむように歩き進みます。この辺りには自販機さえありません。
途中、片側通行のトンネルを抜けて先に進みます。

旧 近藤銘醸 江戸中期 1752年創業(2004年に廃業)

写真手前の立派な蔵に、洋風建築まで建てられている建物に目が留まり、帰宅後に調べると酒蔵であったようです。現在は廃業されてしまっており残念ですが、建物は残してもらいたいと思う程、立派です。

道の駅 両神温泉薬師の湯

道沿いに道の駅「両神温泉薬師の湯」があります。

道の駅「両神温泉薬師の湯」は、その名前の通り日帰り温泉を楽しむことが出来ます。高アルカリ温泉でPH9.2、お肌がつるつるになります。

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道の駅の日帰り温泉は内湯のみなので、露天風呂が好きな私は、ここから少し先にある「国民宿舎両神荘」の日帰り温泉に行くこともあります。こちらも無色透明なPH9.1の高アルカリ性温泉です。

道の駅内にはもちろん、地元で採れた新鮮野菜が販売されています。この日は歩いているので、リュックに入るだけしか買えなかったので残念でしたが、この先には国道299号までお店は無いので、お昼ご飯を買うにも良いです。
手作り弁当が売られており、店内のエアコンが効いている飲食できる場所もあります。

この辺りからは見えないのですが、日本百名山でもある両神山(標高1723m)の麓であり、この先から両神山の表参道でもある登山口「日向大谷口」へ向かいます。

日向大谷口からの登山の記録はこちら👇

yamap.com

両神山の山容はギザギザの尾根が切れ建っているのが特徴で見つけやすく、お天気が良ければ秩父盆地周辺から眺めることが出来ます。

 

三十一番 鷲窟山 観音院

国道299号へ出てから、再び31番札所に向かう山道へと入ります。道案内が置かれているので迷う事はありませんが、早々に札所31番入り口の石碑が見えますが、その先はかなり長い道のりです。

札所31番入り口の石碑からはまだまだ距離がある

この先に進んで行くと、突然牧場があり、沢山のホルスタインに圧倒されながら先に進み、程なく見えてきたお寺に、こんな早くに到着してラッキーと思うと、違うお寺だったり、

突然、違うお寺が現れる その先にはお蕎麦屋さん

立派なお寺にここじゃないのかと思いながら進んだ先には、突然お蕎麦屋さんが現れる。お昼時の時間だったので、お客さんも多く何人もの人が並んでいる前を、大汗をかいたおばさんが歩いているのは場違いだと思いながらも、ここまでかなりの距離を歩いているので、速足で歩けず…。

さらに進んだ先でも、次に出てきたのは地蔵堂であり、_| ̄|○していると、その先にはトンネルまである。本当にこの先にあるのか?と思いながら歩き進んだ先に札所31番観音院があります。

石で出来ている立派な仁王様が迎えてくれます。

札所31番 観音院 仁王門

もちろん、この場所で到着ではなく、仁王門を潜り抜けて山を登って観音堂に行くのですが、その石段が296段あります。般若心経の276文字に普回向(ふえこう)の20字をたした数と説明が書かれています。

296段の石段を登っていると、かなり長いなぁと感じたのですが、数年前に訪れた山形県立石寺「通称 山寺」の階段は1070段もあり、三倍以上もあったと、今更ながら、私よく頑張ったと、自分を褒めました。そして、趣味で登山をしている自分に感謝です。何とか登れるものです。

31番 観音院

巨大な岩壁の絶壁に観音堂が立てられている光景に圧倒し、しばらく眺めてしまいます。

砂岩で出来ている巨大な岩壁のせり出している部分が落ちてこないかと気にもなりますが、この辺りは1700万年前の地層で出来ているとあり、人間が、この場所を見つけるはるか前よりこの形をしていたのではないかと思うと、人間には寿命があるけれど、岩はずっとこの形をしていたのだろうなと…。

秩父に観音霊場が造られたのは、武甲山を含めてこの辺りは古い地層で作られており、その地層が隆起して現れている部分があり、その場所が人間の信仰の対象になったと感じています。実際に訪れると、大きな岩や岩壁、重なり合った地層に感じさせられます。

岩壁に祀られている不動明王

この場所には、弘法大師にまつわる話があり、大師に弘法大師がまつられています。
弘法大師が一夜で彫ったと言われている「磨崖仏」10万8000仏があり、説明版が立てられているのです。

巨大な岩壁を流れ落ちている、高さ30mもありそうな清浄の滝

ここまで31か所の札所をお参りしてきました。その中でも何か所か記憶に残る観音堂がありましたが、上位に感じる程の素晴らしい観音堂です。

札所31番のお参り後は、来た道をひたすら引き返して国道299号に戻ります。ここまで来るときは登りでしたが、戻るには下り坂になるので、少しは楽に感じます。

さすがに暑いので、コンビニで水2リットルを購入して、持参していた粉末のスポーツ飲料を混ぜた。

国道299号小鹿野町に向かい、町を抜けたら再び山道に入っていきます。この間は、コンビニなどのお店が並ぶ国道299号か、バス停がある街中の道のどちらかを歩きます。
32番札所法勝寺に向かう際に二つの峠があり、私は「古洞峠」を歩いたのですが、名前を見てもこちらが巡礼道のようだと感じる「大日峠」の方が、石仏などが多くあるようです。

 

三十二番 般若山 法性寺

札所32番 法勝寺は仁王門の改修中であり、札所のHPなどで見る写真と少し雰囲気が違いました。こちらも、山に造られているお寺なので、階段を登ります。

札所32番 法性寺

御朱印を頂いている際に教えて頂いたのですが、この山の上に奥の院があり大きな観音様を祀られているとのこと。お寺の前の「この場所に建つと観音様が見える」と言う場所があり、確かに白くて大きな観音様の一部が見えました。そこまでは、お寺の奥から山道を(30分?60分?)登れば行けるのですが、山道を歩くのが好きだけれど、ここまで25㎞程も歩いてきたので諦めました。

お寺の奥にある観音堂は、こちらも大きな岩壁に沿うように建てられており、静かな空間に癒されました。

札所32番を参拝後は、またひたすら山を降りてバス停まで歩きます。秩父地方は盆地なのか、山間だからなのか、夏の夕方になれば雷が鳴り響きますが、幸い、大きく雨に降られることもありませんでした。

帰りのバスは長若中学校バス停から小鹿野町営バスか、もう少し先の松井田バス停から西武観光バスに乗って西武秩父駅に行けますが、本数がかなり少ないのと、最終の時間もあるので必ず確認が必要です。私は、事前にしっかりと調べていましたがバス停での待ち時間が長かったので、バスが来るまでかなり心配になりました。

 

お昼ご飯とおやつ

お昼ご飯は、道の駅「両神温泉薬師の湯」でお弁当を買いました。小さめのみそカツ弁当でお値段は399円でした。

おにぎりを2個持参していたので、途中でおやつ代わりにおにぎりを食べながらあるきましたが、帰りの電車を贅沢して特急に乗ったので、缶チューハイと懐かしのコメッコを買って食べながら(飲みながら?)帰りました。

 

使ったお金💰

秩父三十四観音霊場 25番から27番(28番、29番)

秩父三十四観音霊場巡り

2021年の11月に、日本百観音の1つである秩父三十四観音霊場巡りを始めました。

途中であきらめていたという訳ではないのですが、前回の日帰り霊場巡りより一年以上もたっていました。
霊場巡りに期限は無いかもしれないけれど…。と、突然思い出して。

思い立ったら吉日の様な、根拠もない、計画性もない、行動力と言う能力がある私は、梅雨の晴れ間であるものの、日中最高気温は30度を超える夏日に出かけました。

秩父は盆地なので、暑いだろうなとは予想をしていました。
現地に到着して、暑すぎるようならば、予定を変更して日帰り温泉にでも入って、道の駅で野菜などを購入して帰ろうと思っていました。

しかし、当日の朝バタバタしてしまい、出発が遅れ、車は渋滞に突入してしまい思うように進まず、今回の出発・ゴールに計画した「道の駅あらかわ」に到着したのが12時を過ぎており、一日で一番暑い時間になってしまう…。
終わった…
と、心でつぶやきながら、駐車場に車を停めて外に出ると
涼しい…?
コンクリートアスファルトで覆われている都内に住んでいるので、普段の暑さに比べると、吹いてくる風がとても涼しく感じました。
都内の暑い日は、エアコンの室外機の熱風のような風が吹いてくるような感じがする日もあり、緑の匂いを感じる山や畑から吹いてくる風の気持ちよさに感激しました。
と言っても暑いことには変わりなく、日差しの下ではかなり暑くなるので、帽子をかぶり、出来るだけ日陰を歩き、水分補給をしながら、汗をかきかき歩いて霊場巡りをしてきました。
しかし、スタートの時間が遅くなったので、28番と29番の札所は時間切れになってしまい御朱印を頂くことが出来ませんでした。

前回までは、道の駅ちちぶを拠点にして霊場巡りをしましたが、今回は巡礼する札所の場所が秩父の市街地より離れるので、道の駅あらかわを拠点にしました。

道の駅あらかわから国道140号を歩く

前回、24番までお参りしているので25番からになりますが、24番から25番の間には江戸巡礼古道があり、そこを歩きたいと思っていました。道の駅あらかわを出発して、25番にお参りをして、24番に向かって古道を歩き、途中から26番に向かい、変則的に歩いています。

県道72号日野鷺橋からみる荒川と武甲山

秩父三十四観音霊場巡り二十五番から二十七番

二十五番 岩谷山 久昌寺

久昌寺 観音堂

県道から少し入った場所にあります。県道から曲がる角には看板があるのですが、少し見つけづらいかもしれません。観音堂の奥には弁天池もあり、敷地も広くとても景色が良いお寺です。
観音堂の南側には大きな岩が露出しており、真夏の暑さの中でもとてもひんやりとして、吹いてくる風も涼しかったです。お寺の方の話では、冬場は雪がなかなか解けないですよと言われていました。
観音堂の脇の祠には奪衣婆がまつられています。恐る恐る中を覗いてみると、期待を裏切ることは無い、迫力たっぶりの奪衣婆がまつられていました。奪衣婆は閻魔大王の妻ともいわれるので、地獄のファーストレディになるのかも?
しかし、いつ見ても奪衣婆は迫力があり、見た目では閻魔大王より怖いと感じています。
観音堂にお参りして、弁天池のほとりを歩き、本堂にお参りをして御朱印を頂きました。

久昌寺仁王門と御朱印
江戸巡礼古道 久那みち

久昌寺より住宅街の間を抜け、小学校の脇を通り、巡礼道は山に入っていきます。
山に入るとそれなりに虫が飛んでいるのですが、木々が生い茂っているので涼しかったです。山の中の登山道のような巡礼古道は、所々ぬかるんでいるので滑らないように注意しながら沢を渡り歩き進みました。

沢を渡る純正古道 武甲山が良く見える休憩所

先に進むとミューズパークに続く道路に出るので、坂道を下り荒川方向に行くと、荒川がS字に曲がっているのが良く見える場所がありました。この辺りを巴川と言うのは荒川の蛇行による地名なのかもしれないと思いました。
河岸には断層のバームクーヘンが斜めに露出しており、迫力満点の景色を楽しめます。車で走るとなかなか見れない景色に気付いて楽しめるのが歩く旅の良さだと思います。

荒川の絶壁の河岸

荒川を巴橋で渡り黙々と次に向かって歩きます。

二十六番 万松山 円融寺

荒川を渡り、武甲山から続く峰を背にして円融寺はありました。

26番 円融寺


昭和電工さんと琴平神社

円融寺の奥の院武甲山から伸びている峰の山中にあることが地図に書かれています。歩き進んで行くその先に昭和電工という会社があり、看板が設置されています。
奥の院岩井堂とその手前にある琴平神社には会社の敷地内を通らないと行けなくなっており、会社の受付に声をかけて下さいと書かれています。
受付の方は「自分は登ったことは無いですけれど」と言われましたが、航空写真を出してくれ山道を丁寧に説明していただけました。
会社の中を進んだ先に奥の院に向かう階段で作られている道と、琴平神社経由で、荒れているかもしれない道があるとのことで、説明では階段の道が良いとのことでした。
しかし、ここまで来たなら琴平神社にも行ってみたいので、荒れているかもしれない道を選択し、駄目ならば戻って歩き直せばよいかと進みました。
昭和電工さんの敷地内より神社に向かう鳥居の脇にさざれ石があります。さざれ石は君が代にも歌われている小さな石が固まってできる巌(いわお:ゴツゴツしている大きな岩)です。このさざれ石は、石灰がとれる武甲山から産出されたそうです。

ここからは、琴平神社に向かい、長い階段になっている参道を登ります。かなり長い階段です。
琴平神社には、水が注がれている手水舎がありました。ここまで水道を引いて水を出しっぱなしにすることは無いと思うので、山水が引かれているのかもしれません。
神社は無人で、私が行った日は誰もおらずで、何か音がするなと思うと、もしかすると、境内に井戸なようなものがあったのでその音かもしれませんでした。

26番円融寺の奥の院 岩井堂

奥の院 岩井堂

昭和電工さんの敷地内から琴平神社に向かう場所からの標高差は100m程しかないのですが、山道であり傾斜の急なので、山を登ったという実感が出来ます。
山の中で目の前に現れる奥の院岩井堂は急斜面に聳え立つ、大変立派な建物です。
18世紀中ごろの建立と言われているので、江戸時代末期になります。
本来は、秩父三十四観音霊場の26番札所はこちらの奥の院岩井堂であったと言われいるので、当時の人々はここまでお参りに来ていたことになります。

岩井堂の奥にある岩室

武甲山から伸びる尾根の斜面に作られているお堂の奥には岩室があり、石仏が祀られています。北向きの斜面であるにもかかわらず、お堂の屋根の上から照らされる明るさに、信仰の対象であることを感じます。
急斜面に建てられているお堂の舞台に上がるのは少し勇気が要りますが、せっかくここまで来たので、参拝をしました。
この場所からさらに斜面の登山道を登った奥に琴平ハイキングコースがあり、大きな仏像があると書かれているのですが、見つけられませんでした。

下山は、引き返してもとに戻っても良いのですが、このまま山の中の登山道で次の27番の札所に向かいました。

岩井堂の方を振り返って撮影。写真左側に琴平神社から道が合流している。

地図で見ると良く分かるのですが、昭和電工さんは山の谷の奥の方まで工場があるので、そこから琴平神社や岩井堂までは急な斜面を登るのですが、比較的距離がありません。
しかし、次の27番の札所までは山から尾根が張り出しており、その尾根道を標高をあまり落とさずに数か所のピークを越えて、アップダウンを繰り返しながら進み、札所の手前で一気に下ります。
山を歩いた…、という気分が味わえるコースで、山道が好きならば気持ちよく歩ける道です。

二十七番 竜河山 大渕寺

護国観音

尾根道を歩く道中に護国観音がまつられています。

護国観音(27番大渕寺)

秩父市内を車で走ると、山の上にまつられているのが見える白く大きな観音様です。
高さ15m、関東三観音(関東三観音と言う定説はないようです)の1つに数えられているそうです。
護国観音は、昭和10年(1935年)、当時の世の中の流れに対して平和の願いを込めて大渕寺の当時のご住職が建てらたそうです。それから月日が流れ、観音像にも劣化が観られたため、近年改修工事をされており、現在は白く美しい観音像になっています。

観音像の足元から眺める秩父盆地
大渕寺

観音堂

延命水

境内には自然の湧き水で、年間渇水すことが無いと言う延命水があります。恐らく武甲山からの湧き水だと思われ、水の浄化作用がある石灰で出来ている武甲山の恵みの水です。
この水を飲むと三十三カ月(2年9カ月)長生きできると言い伝えられているそうです。

暑い日に、ここまで山道を歩いてきたので多量の汗をかき、持参していた水分もなくなっていたので、こちらの水を飲ませて頂き、さらにマイボトルにも汲ませて頂きました。湧き水ならではの冷たさと、美味しさです。


二十八番 岩龍山 橋立堂

橋立堂も、武甲山から続く尾根の端にありますが、この場所は武甲山の巨大な石灰岩体の西の端になります。そして、橋立堂の下は凝灰岩などであり地質の境目になります。
石灰岩で出来た75mもある岩壁を見て、白い岩肌が高く大きく聳え立つ光景に、人々は信仰の対象としたのでしょうか。
武甲山は、もともと南のサンゴ礁の島であり、プレートの動きで移動してきました。そして、プレートが沈み込む際にはがされて隆起してできた山なので、元の地盤と乗っかった武甲山の境目でもあります。

この場所には、NHKブラタモリで、タモリさんが訪れており、この光景を眺められていました。

(時間切れにより、御朱印はいただけませんでした_| ̄|○。)

石灰の岩壁を真下から見上げる

聳え立つ石灰岩の岩壁

橋立堂に向かう途中にある岩壁 石灰で出来ているのか侵食されている

諸上橋より、浦山ダムを眺める

二十九番 笹戸山 長泉院

時間切れにより、前を通過しただけでした<(_ _)>。

お昼ご飯とおやつ

お昼ご飯は、冷やしうどんをスープジャーに入れて持参しましたが、歩き始めがお昼過ぎと言うタイミングの悪さだったので、道中で少しづつ食べながら歩きました。
暑い日だったので、冷たい物が美味しかったのと、めんつゆの塩分が体にしみました

おやつは、持参してきたバームクーヘンなのですが、ちょうど食べようとしたタイミングで坂道になり、息をはぁはぁしながら食べてむせそうになり、これもまたタイミング悪かった_| ̄|○

バームクーヘンを食べて糖分補給

使ったお金💰

  • 交通費(ガソリン代) 約1100円
  • 帰りにスーパーで飲み物とアイスを購入 288円
  • 合計 1388円 

 

 

甲州街道④後編 笹子峠と旧甲州街道 駒橋宿、JR甲斐大和駅

 

前回の記事はこちら

kechico.hatenablog.com

 

 

笹子峠越え

笹子峠は、江戸日本橋から甲州街道中山道と合流する下諏訪宿の中間地点であり、甲州街道の最大の難所と言われた峠でした。

山梨県大月市甲斐大和市の間にある標高1096mの峠で、この笹子峠を含む嶺の向こうは甲府盆地です。現在ではトンネルで通り抜けられるようになり、鉄道も車道も大きな交通の要ですが、交通が発達するまでは首都圏と山梨県の間にまたがる越えられない山でもありました。

 

江戸時代

江戸時代は歩くしか方法が無かったので、旅人は歩いて笹子峠を越えました。旧甲州街道は、県道212号を縫うように山道の旧甲州街道が残されています。江戸側より笹子峠に入る前で標高約350m程であり、峠の標高が1096mなので750m程の標高差を登ることになります。峠直下は急登ですが、それ以外は山道と思えば登れるような峠でした。峠を越える瞬間には甲府盆地が一望できるのかと期待しましたが、峠自体が山中に入り込んでいるので、残念ながら展望はありませんでした。

甲州街道 笹子峠を越える場所

江戸側より笹子峠までは、名所にもなっている矢立の杉があることもあるのか、大月市が山道や県道の整備をしてくれているようで、歩きやすくなっています。峠を越えた先の甲斐大和市側にも旧甲州街道が県道を縫うように残ているのは同じなのですが、場所によっては山道があれている場所もあるので、山歩きに慣れていない方は県道を歩いた方が良いかもしれないです。

甘酒茶屋跡 桃ノ木茶屋跡

矢立(やだて)の杉

笹子峠にある矢立の杉は、高さ28m、幹のまわり9mの杉で、幹は地上22mで折れており、樹の中は空洞になっているそうです。現在では木の保存の為、近づけないようになっています。樹齢千年を超えると言われており、平安時代には存在していたことになります。戦国時代笹子峠と通って合戦に行く武士が必勝を祈願してこの杉に矢を射ったことが名前の由来といわれています。

 

甲州街道 笹子峠の名所 矢立の杉

1602年に五街道が制定され、甲州街道が下諏訪まで通ったころより、街道には人々の往来が盛んになり、旅人たちの憩いの場になったようで、江戸末期には葛飾北斎歌川広重にも描かれました。

左:杉良太郎さん寄贈の身代わり両面地蔵菩薩
右:矢立の杉を観ながら休憩できるベンチ
28里:笹子峠矢立の一里塚?

笹子峠の矢立の杉近くに江戸から28番目の一里塚があったようですが、場所は解らないようです。

 

 

 

明治以降の笹子峠

江戸時代から明治となり、日本は近代化が進みます。東京都山梨県の間に大きくまたがる笹子峠は交通の難所でもありました。

 

明治36年に鉄道トンネルが開通

笹子峠に一番にトンネルを通したのは現在の中央本線で、1903年明治36年)開通した単線のトンネルで、長さは4656mでした。中央本線の笹子トンネルは、群馬県新潟県の間にある谷川岳を抜ける「上信越清水トンネル(9702m)」が造られるまでの31年間は日本で一番長いトンネルになりました。

中央本線笹子トンネルは、昭和41年(1966年)に新笹子トンネルが造られ、現在では上下線各一本のトンネルがあります。

余談

鉄道トンネルと道路トンネルを合わせて、日本で一番長いトンネルは青函トンネルで、長さは53.85㎞あり、世界で二番目に長いトンネルでもあります。

ここまで考えると、世界で一番長いトンネルは?となり調べてみました。一番長いトンネルだけだと、水路に造られた長いトンネルがあるので、鉄道トンネルと道路トンネルに限定します。そうすると、世界で一番長いトンネルは、2016年に開通したスイスにありアルプス山脈を抜けるゴッタルドベーストンネルで長さは57㎞です。笹子トンネルを通り抜けるとトンネルが長いと感じるのですが、その約12倍にもなります。

 

甲州街道と国道

甲州街道は明治当初は国道に制定されましたが、峠を越える街道に変わりはなく、昭和4年(1929年)には御坂峠を越えて富士吉田経由で大月市に繋がる、現在の国道139号、137号が国道になり、この区間の旧甲州街道は国道ではなくなりました。国道139号は、江戸より大月経由で富士山に向かう冨士道をして賑わっていた街道でもありました。

甲州街道には昭和13年(1936年)、標高1096mの笹子峠の直下になる標高1040m付近の場所に笹子隧道(※隧道=トンネル)が造られました。笹子隧道は長さが239mで幅が1車線です。車で通るには対抗車が無い事を確認して通る必要がありますが、現在でも旧甲州街道(県道212号)にあり、二本の柱が大変趣を感じる素敵なトンネルです。

笹子隧道 右側より旧甲州街道の山道で笹子峠を越えられます

笹子隧道が造られた後、昭和27年(1952年)に国道20号として甲州街道が国道に制定されるのですが、山梨県の特産物である果物や野菜などを東京の市場へ出荷するには中央本線による鉄道での貨物輸送だったそうです。一部で利用されていたトラック輸送も御坂峠と富士吉田市を経由するルートが使われていたという記録もあり、笹子峠を越える流通は難しかったようです。

 

新笹子トンネル 国道20号

昭和33年(1958年)新笹子トンネルである、現在の国道20号が開通しました。片側1車線で、長さが2953mの新笹子トンネルは当時は有料でしたが、笹子峠を越えることなく抜けられたため、御坂峠と富士吉田を抜けるコースよりも、距離約30㎞、時間は約1時間40分も短縮できるようになりました。予想した交通量を越える多さでああったため、料金回収が進み予定より早く昭和46年(1971年)に無償化されています。

国道20号新笹子トンネルの開通で、首都圏への果物や野菜、花の出荷量が増え、八ヶ岳周辺で生産される生乳や畜産物も流通し、地域に大きな経済効果がありました。

 

中央自動車道 笹子トンネル

鉄道は明治に開通し、昭和に入り国道20号笹子峠をトンネルで抜けられるようになりました。

高速道路である中央自動車道(以下、中央道)は昭和52年(1977年)、2023年の46年前に開通しました。2車線のトンネルを上り(4717m)と下り(4784m)で各1本のトンネルが2本造られています。中央道では岐阜県にある恵那山トンネルに続く2番目の長さとあります。しかし、トンネルの設計速度が時速80㎞であり、制限速度は70㎞に設定されている事もあり渋滞ポイントの1つでもあります。

余談

甲信地方に出かけて中央道上りで都内に戻ろうとするといつも混んでいるイメージがあります。かといって一般道である国道20号に変更しても、中央道が渋滞している時に考えることは皆同じで、高速から逃げてきた車と、相模湖から入ってくる車で車だらけになっている事があります。あまり長く渋滞していると国道411号(柳沢峠)や国道140号(雁坂峠)、大月市から国道139号(松姫峠)で峠越えをすることもあります。しかし、かなり遠回りになることに加えて山越えは運転も大変ですし、時間もかかるので状況判断が大事だと思っています。

渋滞解消のための工事もされているようなので、もう少しの我慢かもしれません。

小仏峠付近 渋滞解消のために新しく橋が造られています

笹子峠のトンネルの本数

江戸時代の旅人は歩いて越えた笹子峠ですが、現在では何本のトンネルがあるのか。

鉄道である中央本線は単線のトンネルが上下線各1本で合計2本、

高速道路の中央道は2車線のトンネルが上下線各1本で合計2本、

国道20号は片側1車線のトンネルが1本、

甲州街道にある県道212号にある笹子隧道トンネル、1車線で長さが239mが1本

合計6本でした。

 

34 駒飼宿

29里 駒飼?日影?の一里塚

笹子峠より駒飼宿に入る前の旧街道山道の脇に一里塚の木柱がある記録がありますが、見つけられませんでした_| ̄|○

 

笹子峠を降りた先、山の中腹になるような場所にある集落は、甲州街道の江戸から34番目の宿場の駒飼宿です。駒は馬のことであり、この地方は馬の放牧が多かったことから駒飼宿と言われたそうです。

二軒の本陣跡に木柱がある

甲州街道は車道を進みながら途中で脇道に入ります。

街道沿いの立派な家 笹子峠をトンネルで抜け谷を抜ける中央道


JR中央本線 甲斐大和駅

ゴールは甲斐大和駅です。中央本線にのって帰りました。

距離:26.1㎞

時間:7時間06分

 

yamap.com

 

お土産は笹子餅

笹子峠を越える前のJR笹子駅近くの国道20号沿いにに笹子餅を売られているお店があります。お店と工場のような建物が道路を挟んで両側にありますが、どちらも同じ様です。明治の鉄道開業と共に駅で販売されてきた大月市の名物で、粒あんが入っているよもぎの草餅です。甘さ控えめで美味しかったです。今では珍しい経木に包まれています。

笹子餅はとても柔らかいので、リュックに入れる時は気を付けないと、私のようにすへしゃげてしまいます_| ̄|○。消費期限が短いので早めに食べましょう。

笹子餅 5個入り500円

 

甲州街道④前編 26大月宿(JR大月駅)~33黒野田宿

 

 

前回の甲州街道歩きより半年ぶりとなってしまいました。その間数回の登山にはいきましたが、体力保持目的で、自宅近くの公園を徘徊?していましたが、徘徊しすぎて足を痛めるし涙。歳には勝てないと思うのは私も同じ…。

 

今回は甲州街道最大の難所と言われる笹子峠を目前にしたコースであり、前回終了後の大月駅からスタートして笹子峠を越える手前の笹子駅までは12㎞強であり、少し物足りない。かといって、笹子峠を越えて甲斐大和駅までを旧甲州街道笹子峠を越えるとさらに16㎞であり、合計すると28㎞だなぁと思い、以前に下見をしていました。

その時のblogはこちら👇。

kechico.hateblo.jp

 

ここ最近、バタバタと慌ただしかったこともあり、自分の悪い心を解毒できずにため込んでしまい(;^_^A、このままでは悪い人間になってしまうと焦りもあり、ゴールデンウィークのお天気が良い日に出かけてきました。夏日で日差しが強く暑かったです。

 

26 大月宿

甲州街道の大月宿は江戸から26番目の宿場です。大月宿から先で冨士道との追分(街道から道が分かれるところ)があるので、富士山への参拝客で賑わった宿場でした。

・本陣1、脇本陣1、問屋1、旅籠2

JR大月駅を出発し、旧甲州街道は、国道20号に出ないで手前より趣を感じる商店街の通りを進んだ先で国道20号に合流します。この辺りが宿場であったのか、鉄道の駅が出来たために栄えたのかはよくわかりませんが、代々溝口家が務めた大月宿本陣は国道20号に出た先の道路の南側にあります。

大月宿本陣溝口家 明治天皇の碑

・大月追分

富士山へ参拝する旅人はここから甲州街道と分かれて南に向かいました。現在では富士急行と国道130号が並走して走って富士吉田市に向かっています。

追分には常夜灯と道標がありますが、年代は良く解りませんでした。

甲州街道 大月追分(冨士道との分岐点)

道標の向こうに流れている川は桂川であり、源流はどこなのかと調べてみると、なんと山中湖でした。そして、この場所のすぐ下流でこれから並走する笹子川と合流した桂川は相模湖方面に流れていき、山梨県から神奈川県に入った場所で相模川に名前が変わり、相模湾に流れていきます。

甲州街道はこの先の笹子峠に向かい、笹子川に沿って上流に向かいます。

 

23番目:下花咲の一里塚

桂川に架かる橋を渡り進んだ先の国道20号の南側に石仏群と小さな塚があります。この日に見る限りでは一里塚と確認できるものは無かったのですが、大月市のホームページに(文化財一覧のPDF)「下花咲の一里塚」と記載があり確認できました。

下花咲の一里塚跡

道路工事や鉄道工事により当時の面影は残っていないと書かれていますので、脇にある小さな塚は実際の一里塚なのかはわからず、「復元されている」と、書かれている本もあります。もし、復元されているのであれば、一里塚だと分る石碑や説明版がありそうと思うと、もともとあった物かもしれないかも?(知らんけど👈無責任発言(;^_^A)

 

27 下花咲宿、28 上花咲宿

下花咲宿と上花咲宿の間は約600m程しかなく、人馬や荷物の引き継ぎ業務は半月ごとの交代で行っていたそうです。

現在では下花咲宿本陣建物が残っています。甲州街道で本陣建物が残っているのは相模原市にある小原宿本陣と、下花咲宿本陣の二か所のみです。日野宿に残っているのは脇本陣であった建物で、本陣が火災により焼失後本陣の役割をしたものです。

下花咲宿本陣星野家住宅(現在見学は休止)

本陣建物は、1836年に前の建物が焼失し再建されたものとあるので江戸末期の建築と思われます。以前は見学できたそうですが、この日は「しばらくの間、見学は休止させて頂きます」と書かれていました。

 

親鸞聖人旧跡太布名号

親鸞聖人太名号碑

親鸞聖人が甲斐の国とどのような縁があったのか解らなかったので、調べてみました

浄土真宗開祖親鸞聖人御旧跡めぐり<外部リンク>

 

 

甲州街道国道20号を進み、源氏橋で笹子川を渡り下初狩宿へ向かいます。

源氏橋の上より笹子方面を望む

 

25里:丸山の一里塚は場所が特定できていない

甲州街道の一里塚はWikipediaや、文献、個人のblogなどで順番が異なっているので、何番目かを特定するのが困難ですが、恐らく江戸から24番目の一里塚がこの近くにあったようです。

丸山の一里塚はこの付近にあった様子

29 下初狩宿、30 中初狩宿

初狩宿と中初狩宿も合宿でした。

左)下初狩宿の木柱、右)中初狩宿入り口

初狩宿本陣と山本周五郎生誕の地

甲州街道を下初狩宿より中初狩宿に向かって歩くと、旧街道から国道20号に出て少し歩くと「山本周五郎生誕の地」と書かれた石碑があり、石碑の奥に立派な建物があります。

山本周五郎明治36年1903年)生まれの小説家です。名前は清水三十六とあります。

初狩宿本陣と 山本周五郎生誕の地

石碑の奥にある立派な建物は中初狩宿本陣の奥脇家です(建築年代は不明)。明治40年に大雨により大水害が発生し、初狩村は壊滅的被害がでたとあるので、その後の建築かもしれないです。

 

宮川橋の一目富士

初狩宿本陣より少し進んだ先で、左手に富士山の頭が見える場所があります。

電柱と電線を消しゴムマジックしています

この辺りの地形は江戸時代と変わらないでしょうから、当時の旅人もこの場所で富士山を眺めたのでしょう。富士山が見えると何だか嬉しくなります。

この写真を撮ったすぐ先に笹子川の支流の宮川にかかる宮川橋があり、ここからちらっと見える富士山は「宮川橋の一目富士」と呼ばれていました。

 

国道20号は緩やかに高度を上げていきます。

初狩宿の小林本陣は街道の北側にあり、明治天皇の石碑があります。

初狩宿の木柱

初狩宿を抜けると、山間を抜ける国道20号に沿って進みます。途中でJR中央本線の下をくぐった先で笹子川に降りられる階段が造られていたので降りてみました。

この辺りには集落には用水路がひかれており、その取水している場所がありました。古くから田畑の農業用水や生活用水として生活の一部として欠かせない水路だったようです。笹子川の美しい水が豊富に流れていました。

 

26里:白野の一里塚

次の宿場が見えてくるあたりで、右側に中央本線の線路が見える場所で曲がって線路下をくぐり、やや急な斜面を登った先に走っている中央道の手前に江戸より25番目になる白野の一里塚があります。

中央道脇にある白野の一里塚跡

笹子川の急カーブに沿って斜面を削って国道20号が造られていますが、それ以前は川沿いを通れなかったのか、小高い斜面を進んで回り道を避けたのか、旧甲州街道は斜面を通っていたようですが、線路や高速道路の建設で現在では残っていないです。一里塚跡にも塚のようなものはありませんが夫婦道祖神の石仏と木柱があります。

一里塚の先は登山道になるので、国道20号に引き返します。

一里塚前からみる中央本線と特急電車

 

31 白野宿、32 阿弥陀海道宿、33 黒野田宿

白野宿と阿弥陀街道宿、黒野田宿はそれぞれが小さく3宿で人馬の引き継ぎ業務を分担していました。

白野宿

国道20号より北側に旧甲州街道を進むと白野宿です。

白野宿の木柱

白野宿を過ぎると、旧甲州街道国道20号に合流しますが、すぐに北側に分かれて中央本線の脇を通り阿弥陀街道宿に入ります。

阿弥陀街道宿

集落を進むと村社である稲村神社があり、向かいに親鸞聖人にまつわる供養塔があります。

親鸞上人念仏供養塔

葦(よし)が池伝説

この地の地頭の小俣左衛門の娘のよしが旅の僧侶への悲恋の末に池に身を投げて毒蛇となり、村人を苦しめるようになり、親鸞聖人に供養されたという伝説が残っているそうです。

親鸞聖人がよしを供養するために池に投げ込まれた経石も残っているそうです。そして、この伝説は「笹子追分の人形芝居」で現在でも演じられているそうです。

しかし、よしは江戸時代のこの地の実際の人物のようなのですが、親鸞聖人は鎌倉時代だったような。

宿場内を先に進みます。旧甲州街道は宿場の先まで続いており、Googleマップにも記載はあるですが、中央本線により分断されています。

看板は正しかった_| ̄|○

街道歩きをしていると、こういう場合は人が歩ける道が残ってる場合が多いのですが、この場所は本当に行き止まりでした。国道20号に向かって曲がります。

黒野田宿

国道20号を歩いていると、変わった形のお地蔵様に出会います。

甲州街道黒埜 宿笠懸地蔵

このお地蔵さまは安政2年(1855年)、江戸末期。1833年から1835年にわたる天保の大飢饉によるものと説明版に書かれています。

黒野田宿本陣(電線を消しゴムマジック)

国道20号沿いに黒野田宿本陣(天野家)があります。明治天皇の碑もありますが、その他には説明版のようなものもなく、建物も公開されていませんでした。

 

27里:黒野田の一里塚

国道20号が緩やかにカーブしている場所で、甲府方面に向かて右側に「普明院」というお寺があり、お寺の門の両脇に黒野田の一里塚の碑があります。

向かって左側の木柱は、他の一里塚の物と同じものであり、「一里塚跡 黒野田」と薄くなった文字が書かれているのみなのですが、右側にある石碑には「江戸日本橋より二十五里」と書かれています。が、多分「二十七里」です。どうして、二十五里と書かれているのかは分かりませんでした。

街道沿いの塚に馬頭観音を含む石仏が祀られている場所があり、先にある笹子峠ごえが難所であったことを感じながら、ゴールデンウィークであることを思い出させる、笹子川で元気に泳ぐこいのぼりを眺めながら先に進みます。新緑が奇麗です。

国道20号沿いの矢立の杉の大きな看板を眺めて、どれほど大きな杉なのだろうかと思いながら、国道20号のカーブより旧街道に入ります。

 

続きはこちら👇

kechico.hatenablog.com

 

 

参考<外部リンク>

大月観光協会 黒野田宿本陣見学とディープな笹子を知るウォーキング

https://otsuki-kanko.info/blog/view/28502

甲州街道③後編 矢坪坂の古戦場跡(山梨県上野原市)~駒橋宿(山梨県大月市)

 

 

荻野の一里塚を過ぎてから集落を通り抜けて談合坂SA(上り)手前で中央道を渡り矢坪地区に入ります。現在では中央道が貫いている場所なのですが、もともとは手前にあった長峰砦跡から矢坪地区までは尾根が続いていました。長峰砦は戦国時代に築かれた砦であるならば、この辺りは戦の歴史があります。

矢坪坂の古戦場跡

1530年(享禄3年)甲斐国の小山田が相模国を矢坪坂で迎え撃ち激戦となりました。戦いの末小山田は敗れ多数の死者が出たと伝えられており、付近では矢じりが掘り出されることもあったそうです。

 

甲州街道は山道になりますが、途中には戦に関係があるのだろうかと思わせられる場所が残っています。

山中を通り抜ける古道沿いの石碑と座頭転がし、天王様

20犬目宿

本陣2、脇本陣0、旅籠15

1970年の火事で焼失し、現在では宿場の面影を残すような雰囲気は残っていないです。

犬目宿 明治天皇御小休所の碑

犬目宿から見た富士山は犬目富士と呼ばれ葛飾北斎歌川広重にも描かれていますが、現在では同じような眺めを観ることは出来るのでしょうか。今回の街道歩きでは展望場所を見つけることはできませんでした。

 

犬目宿兵助

1836年(天保7年)の大飢饉に米を買い占めていた商人に直談判した義民とあります。兵助が起こした一揆は後に暴徒化してしまい天保甲州一揆にまで発展してしまいました。兵助は晩年に犬目に戻り家族とひっそり暮らしたそうです。

宝勝寺

甲斐88か所の6番札所、郡内33観音霊場の23番目の霊場でもあります。葛飾北斎富嶽三十六景歌川広重の不二三十六景はこの辺りで書かれたとあります。宿場を甲斐国側に抜けた先にあります。

宝勝寺

恋塚一里塚 21番目

犬目宿を抜けて山道の県道を進むと江戸から21番めの恋塚の一里塚があります。

21番目 恋塚一里塚

南側の一里塚が現存しています。平成18年の大雨により塚の西側斜面が崩れましたが復旧工事がされています。もともと付近は峰続きでしたが旧街道を作るときに掘割りしたため地形を生かして一里塚が作られたとあります。きれいな形が残されている一里塚であり、甲州で唯一当時の姿を残しています。塚には松が植えられていたそうです。

恋塚の一里塚を過ぎると山道である県道を進み下鳥沢宿へ向かいます。この辺りを過ぎると街道は標高をどんどん下げ国道20号に合流し桂川に沿うようになっていきます。

集落に祀られている山住神社と県道沿いにあった可愛いモニュメント

21下鳥沢宿・22上鳥沢宿

下鳥沢宿と上鳥沢宿は二つの宿が半月ごとの交代で宿場の役割を果たした合宿と言われる機能を果たしていました。

宿場らしい町並みは1906年明治39年)の大火で焼失していますが、街道沿いの宿場の雰囲気が残されています。

上鳥沢宿に残る問屋場の建物

上鳥沢宿の本陣跡は現在セブンイレブンがある場所とあります。すぐ隣には明治天皇の碑があります。

 

22鳥沢の一里塚

国道20号沿い北側の下鳥沢宿と上鳥沢宿の間に木柱があります。結構見つけづらい一里塚跡でした。江戸から22番目の一里塚です。

 

23猿橋宿

国道20号をひたすら進みます。その先には猿橋宿があるのですが、見所は日本三奇矯と言われる猿橋です。

猿橋

山口県岩国の錦帯橋、長野県の木曽の棧と共に三奇矯の一つの猿橋です。橋脚が使われず両岸から張り出した四層のはね木で支えられている特殊な構造だとあります。奈良時代に造られたとあり現在の猿橋は1851年(寛永4年)の資料を基に1984年に復元されたものです。

 

本陣1、脇本陣2、旅籠10

比較的大きな宿場で、江戸時代には芝居小屋もありました。猿橋の絶景を観るために宿泊や休憩をする旅人で宿場や茶屋が賑わう宿場でもありました。

猿橋日本橋から甲斐国側に渡った場所より宿場があったとあります。現在では観光場所となっており、宿場であったという面影はあまり残っていなかったです。

 

23猿橋の一里塚

猿橋を抜けて国道20号を進みJR猿橋宿を過ぎた先にある阿弥陀寺前に猿橋の一里塚の木柱があったと記事と写真がありましたが今回は見つけられませんでした<(_ _)>。

 

中央本線を渡る

猿橋の一里塚があったであろう阿弥陀寺の先で国道20号より旧街道に入り

ます。旧甲州街道東京電力水力発電所脇の細い道となり、進んだその先で中央本線を渡るのですが、立ち止まって写真を撮りました。

中央本線を渡る遮断機のない踏切

24駒橋宿

本陣0、脇本陣0、旅籠4

宿場の規模としてはかなり小さな宿場です。現在では宿場の面影はありませんが厄王大権現が祀られている場所に宿場と書かれている木柱が立てられていました。

 

大月駅

今回のゴール地点としたJR大月駅に到着しました。JR中央本線富士急行の駅であり特急も止まるターミナル駅です。駅は登山やトレッキングを終えて電車に乗ろうとしている客で賑わっていました。私もその一人です(*^-^*)。

JR大月駅とお土産に買った信玄万頭

夕方17時を過ぎており辺りは暗くなってきてしまい、駅構内で信玄万重をお土産に買って、中央本線に乗って帰路につきました。

 

今回のYAMAPデータはこちら👇

yamap.com

 

お昼ご飯🍚とおやつ

旧街道歩きをしているとタイミングよく飲食店やコンビニにたどり着く可能性が低い事もあるので、今回もお弁当を持参しました。スープジャーの中には天丼を入れています。談合坂SA上り線手前にある公園で頂きました。上野原で買った酒まんじゅうも美味しかったです。運動をして青空の元で食べる食事は美味しいです。

 

使ったお金💰

  • 電車代 1925円
  • コンビニでおにぎりとパン 278円
  • 自販機で飲料購入×2本 270円
  • 酒まんじゅう二個 220円
  • お土産の信玄饅頭 550円
  • 合計 3243円

でした(*^-^*)。

甲州街道③中編 18鶴川宿~19野田尻宿(山梨県上野原市)

 

 

甲州街道歩き③前編に続く中編です。

 

18番目の宿場である鶴川宿~野田尻宿前編はこちら👇

kechico.hatenablog.com

甲州街道歩きの記事はこちら👇

kechico.hatenablog.com

 

 

谷を一気に抜ける中央道

上野原宿から国道20号を進み本町交差点の先で旧街道は南に分かれます。住宅街を進んだ先で旧甲州街道は北に向かい、北から南に向かっている国道20号を歩道橋で渡り鶴川宿へ進んでいきます。

国道20号を歩道橋で渡る

国道20号桂川相模川)に沿って中央本線と共に西に向かいます。旧甲州街道は中央道に沿うように談合坂方面を進むのですが、桂川にの支流である鶴川を越えなくてはならないのです。鶴川はそんなに大きな川ではないのですが、あたりの地形が幅が広い谷になっているのでいったん川岸に降りて再度登り返すことになります。そんな幅が広い谷になっている場所を中央道はどうなっているのかと思うと、

谷を橋で抜ける中央道

長い橋が架けられており一気に走り抜けます。橋は500m程もありそうです。詳しくは解りませんが500mと仮定して時速80㎞で走ったならば、所要時間は0.375分となり、22.5秒です👀。車で22.5秒で走り抜けられる区間を旧街道を歩くと約30分かかりました。文明を感じました<(_ _)>。

 

18鶴川宿

本陣1、脇本陣2、旅籠8

鶴川宿は小さな宿場でしたが、鶴川の川越を伴う場所にあるので宿泊に関しては充実していたとあります。1921年(大正10年)の大火で建物は焼失したとありますが、江戸側より鶴川を渡った先にある街並みは、一直線に通る街道とその両側に家々が立ち並ぶ宿場の雰囲気を残しています。

鶴川脇にある休憩所 鶴川宿の雰囲気が残る街並み
鶴川神社と当時を偲ばせる建物

甲州街道は宿場内を抜けると南に大きく曲がり山を登り尾根近くまで進むと中央道が沿うように通っています。

 

大椚の一里塚

間の宿である大椚宿に向かう途中に大椚の一里塚跡の石碑があります。

大椚の一里塚跡

説明版に、実際の一里塚の場所はこの場所から江戸側に戻った場所にあったとあり、現在ではその場所は残ってないですが江戸時代の絵図で確認できているそうです。Wikipediaには18里とありますが19里の様です。

 

間の宿 大椚宿

甲州街道は比較的宿場間の距離が短く作られているのですが、鶴川宿と野田尻宿の間(距離は1里3丁で約4,2㎞)に間の宿として大椚宿があったようです。間の宿は正式な宿場で無かった事もあるのか、Wikipediaにも記録がなく、資料となるものも見つからなかったのですが、旧甲州街道沿いに木柱があります。

大椚宿の木柱と廿三夜塔
我妻神社と樹齢600年の大杉

参考)我妻神社脇に公衆トイレがあります。

 

長峰砦跡

大椚地区を抜けると旧甲州街道は中央道脇になり、進んだ先に長峰砦跡があります。

長峰砦跡の石碑と説明版が置かれているポケットパーク
甲斐国側から撮影

長峰砦跡はやや小規模の中世の山城跡で、武田信玄の家臣丹後守が甲斐国の東口を相模国北条の侵略から守るために監視をしていたとありますが砦に関しては不明なことも多いとあります。この場所は当時の交通の要所であり、水にも恵まれていたことがこの場所に砦を築いた理由の様です。

砦があったであろう場所のほぼ真上を中央高速道路が建設され元の形を留めなくなってしまっていましたが、中央道の拡張工事が行われることになった際に平成7年から3年間にわたり発掘調査をされています。

当時の砦跡と甲州道中と中央道の様子

発掘された甲州道中

その際に江戸時代の甲州道中とみられる道路の跡が尾根筋を縫うように断続的に発見されました。道幅は1m余りと狭く、地形に沿って蛇行や起伏が激しい険しい道であったとあります。

説明版に当時の遺構と中央道を重ね合わせた図が書かれており、発掘された甲州道中も書かれています。長峰砦跡の遺構を縫うように甲州道中が発見されているのをみて、砦は江戸時代には必要なかったものと思いました。戦国時代が終わったことを実感させられます。

長峰砦跡を過ぎて、中央道を北に渡って野田尻宿に向かいます

 

19野田尻宿

本陣1、脇本陣1、旅籠9

野田尻宿も小さな規模の宿場でした。明治19年の大火でほとんどが焼失したとあります。

野田尻宿は現在の中央道の談合坂SA下り線のすぐ北側にありますが、宿場の方が標高が低いので高速道路の向こう側になるSAは見えないです。

野田尻宿の石碑と明治天皇の御小休所

お玉ヶ井

旅籠で働く美しい女中のお玉さんの恋物語だそうですが、お玉さんは竜であり、長峰池の主である龍神路結ばれたそうです。お玉さんは念願の恋が実ったお礼にと、水不足であった野田尻の一角に澄んだ水をこんこんと湧き出させたそうです。

お玉ヶ井の石碑 西光寺

西光寺

824年に建立された真言宗の寺院であり、後の鎌倉時代臨済宗に転宗した由緒ある寺院とあります。

 

萩野の一里塚

江戸から20番目の一里塚であり、甲斐国に入って塚場の一里塚、大椚の一里塚に続く3番目の一里塚です。北側の塚には平松という老松があったそうです。

萩野の一里塚の木柱と甲斐国側に進んだ先にある説明版

一里塚の木柱が立てられている場所が山道のカーブでもあるためか、説明版は甲斐国側に少し進んだ先にありました。

 

 

 

百観音温泉 埼玉県久喜市

 

 

趣味の一つである日帰り温泉巡りです。これまで訪れた日帰り温泉一覧はこちら👇

kechico.hatenablog.com

 

 

埼玉県久喜市にある百観音温泉です。

この日帰り温泉の特徴はいろいろありますが、なんといっても源泉かけ流し、加温なし(源泉は57度)ですヽ(^。^)ノ。なかなか、加温なしの日帰り温泉は珍しいです。

 

温泉とお風呂

温泉はアルカリ性とあり㏗7.67です。泉質がナトリウム塩化物強塩酸泉とあり、少しぬるっとしたお湯で塩分が強めに感じます色は茶色がかっており鉱物が混じっているような感じがしますが、特に匂いはありませんでした。

 

源泉の湯量が1000ml/分とあり湯量がたっぷりあるため、露天風呂も内湯も源泉かけ流しになっています。

そして、源泉の温度が57度もあるため加温なしの珍しい日帰り温泉関東平野では結構貴重だと思います。露天風呂に結構珍しい立ち湯があり、そこの湯温が45度もあり、高温の源泉を生かされています。熱湯も好きな私も入りましたが、さすがに45度は結構熱いです(;^_^A。

なんで、関東平野なのに高温の源泉が出るのかなと考えました。根拠はないのですが、この辺りは中央構造線が通っているであろうとされている場所なので、その影響があるのだろうなと勝手に思いました(*^-^*)。

 

立ち湯の他にもたくさんのお風呂があるのもここの特徴ですが、たくさんあるお風呂のお湯は適温に調整されています。少し熱めの気持ちが良い温度であり、炭酸泉はぬるめの温度でした。

館内はかなり広く、内湯も広いですが、露天風呂がかなり広く作られています。それも、源泉の温度が高いから出来るのだろうなぁと思いながら、その広い館内に地元の人かなと思うお客さんが多くおり、家族や友人等複数で来られて楽しくお話をしながら入浴されている人が多いような印象でした。お風呂は広くて数もあるので込み合うような感じではありませんでした。

サウナもあり水風呂もあります。水風呂は温度が高めですが地下水とのことです。

色々なお風呂を楽しんで、寝ころび湯で寝ころびながら青空を眺めていました。気持ち良かったです。

百観音の由来

温泉施設の前に観音堂があります。中には百観音が祀られているとあり、百観音は秩父三十四か所、坂東三十三か所、西国三十三か所の合計で百観音温泉の由来とあります。館内に入ってすぐの場所にも大きな観音様が祀られており、信仰されているようです。

 

料金と交通手段

大人1人

平日 800円

土日祝 850円

車は広い駐車場があります。

電車ではJR宇都宮線東鷲宮駅より徒歩三分の便利な場所にあります。

百観音温泉 - 埼玉県東鷲宮 源泉かけ流し 美人の湯

 

寄り道して鯰の天ぷらと新鮮野菜を購入

東武動物公園にほど近い場所でもありますが、少し車で走りって道の駅加須わたらせに行きました。向かいにわたらせ遊水地があります。

ラムサール条約に登録されている湿地であったり、ハート形をしている事から恋人の聖地と言ったりしているようですが、反面、渡良瀬川上流にある足尾銅山足尾鉱毒事件による鉱毒を沈殿させ無害化することを目的に、渡良瀬川下流に造られた日本最大の遊水地であると、Wikipediaに書かれています。

道の駅加須わたらせで珍しいのは鯰の天ぷらが食べられます。イートインで定食がありますが、私はテイクアウトにしてベンチで座って頂きました。

テイクアウトした鯰の天ぷら(500円)

鯰は臭みは無く肉質はしっかりとした感じです。脂っぽい事は無くどちらかというとあっさりしているのか、揚げたてでもあり天ぷらがとても美味しかったです。結構、珍しい物を食べるのは好きです。

 

ここは結構見晴らしが良く、東に筑波山、西に富士山が良く見えました。

昔、神様が日が暮れてから富士山に到着し宿を求めたけれど断られ、今後お前の要る山は夏冬問わず雪に閉じ込めてやるぞと言い残して東に行くと筑波山に着いた。筑波山はあたたかく迎え食事を作りもてなした。神様はとても喜んで、そなたの要る山は日月ともに幸あれ。今後人々が集い登り飲食も豊かにささげるだろうと言ったという。

日本百名山より

甲州街道③前編 14与瀬宿~17上野原宿

 

甲州街道歩きの三回目は江戸より14番目の宿場である与瀬宿(神奈川県相模原市)から24番目の宿場の駒橋宿(山梨県大月市)までの34,8㎞を歩きました。

甲州街道は、江戸から甲府までを表街道、甲府から下諏訪までを裏街道と呼ばれていたとあり、表街道の区間に多くの宿場が置かれています。この日に歩いた距離は確かに長かったのですが、宿場は11か所にもなってしまったため、ブログは分けて書きました。

 

14与瀬宿

JR相模湖駅より出発し甲州街道国道20号に進みます。西に少し歩くと与瀬宿本陣跡があります。以前は与瀬宿本陣と書かれた木柱があったようですが、見つけられませんでした。この場所には明治天皇御小休所でもあり石碑があります。明治天皇所縁の場所でもあので、恐らく本陣だろうなろ思っていると、先の吉野宿にある説明版に与瀬宿本陣と書かれています。

与瀬宿本陣跡

 

本陣1、脇本陣0、旅籠6

甲州街道の宿場は全体に規模が小さく、与瀬宿も小さな規模の宿場だったようです。与瀬宿本陣は明治13年明治天皇が休憩された場所で、食事は先の吉野宿で取られたそうです。

 

慈眼寺と與瀬神社

与瀬宿本陣跡を敷地に沿って曲がると慈眼寺と與瀬神社の前を旧甲州街道は通るのですが、中央道が参拝道を横切っており、中央道にかかる歩道橋を渡るようになっています。

左)鳥居の向こうに歩道橋がある與瀬神社
右)旧甲州街道は中央道をくぐる

與瀬神社を過ぎると旧甲州街道は中央道をくぐるように崖に造られた歩道を通り山の方に向かいます。

 

貝沢橋と与瀬の一里塚

国道20号をかすり、旧甲州街道は山に向かう林道に入ります。この辺りは貝沢という沢で、その沢にかかる貝沢橋を渡り、与瀬の一里塚に向かうのですが、Googlemapにこの間の旧甲州街道が書かれていなく、どこから沢に降りるのかが解りませんでした。仕方がないので、いったん戻り先に進んで下諏訪宿方面より与瀬の一里塚に戻り先の貝沢橋にたどりつき、江戸側から沢に降りる場所まで戻りました。江戸側の林道から沢に降りる山道の入り口は結構解りにくいです(;^_^A。

林道の終点。石碑がります。ここより左にUターンするように林道を進み、沢側に設置されている緑の金網のフェンスが途切れた先5m程の場所に、沢に降りる山道があります。

左)貝沢橋 右)与瀬の一里塚跡

 

15吉野宿

山の中腹を緩やかに少し標高を上げながら西に歩きます。相模湖を眺め、途中に秋葉神社があったり、石仏が祀られている街道を進みます。この辺りから関野宿の手前まで間には比較的新しく甲州古道と地名が書かれた木柱があるので、それらを見つけながら歩くのも楽しいです。

相模湖  石仏  甲州古道の木柱

さらに先に進むと旧甲州街道は突然南に曲がり、相模湖に向かって下ります。中央道を渡り、現在では車道に整備されている関係で道路がくねくねしている場所には、山道でGooglemapに乗っていない旧街道が残されています。木柱が立てられているので比較的見つけやすいです。

中央道を渡ると写真を撮ってしまう(;^_^A。右は吉野宿高札場跡。木柱があります。

 

本陣1、脇本陣1、旅籠3

吉野宿に入る手前で旧甲州街道国道20号に合流します。国道20号の脇に本陣跡、旅籠などの史跡があります。

吉野宿本陣の建物は江戸末期に木造5階建てで偉容を誇っていたとあり、本陣の説明版に当時の写真が描かれていますが、明治29年の大火で焼失しています。大火を免れて現存しているのが本陣の土蔵であり、こちらは三階建てであり江戸時代に建築された可能性があるそうです。現在は国道20号のすぐ脇に建てられていますが、国道20号の歩道整備で曳家で現在の場所に移転されているそうです。

吉野宿本陣跡と現存する吉野宿本陣の土蔵

本陣跡の向かいには藤屋という屋号で旅籠がありましたが、明治29年の大火で焼失し、現在のふじやは明治30年に建築されています。再建後は農業と養蚕業をされたとあり、二階は蚕室とあり、建物は週末の日中に見学できます。

ふじや(見学可能)と、とても参考になる案内図

16関野宿

藤野の一里塚 江戸より17番目

国道20号脇に樹齢推定300年の榎があります。この辺りが17番目の藤野の一里塚の場所でもありますが、看板に説明はありません。吉野宿にあった看板を良く見直すと一里塚の記載と榎の写真があるので他も調べると藤野観光協会が発行されている甲州古道案内図にも書かれているので恐らくここで間違いないと思われます。場所が国道20号すぐ脇のガードレール外にあるので交通量が多いので気を付ける必要があります。

藤野の一里塚とJR中央本線を歩道橋で渡る旧甲州街道

甲州街道は進んだ先で古道が残っており、その先でJR中央本線を歩道橋で渡ると関野宿になります。

本陣1、脇本陣1、旅籠3

関野宿も宿場の規模は小さいですが、相模国最後の宿場であり、この先は諏訪番所を通り甲斐国である上野原宿になるので重要視されていたそうです。宿場は明治21年の大火とその後の二度の大火にて、宿場の面影は残されていません。本陣跡の看板があります。

関野宿本陣跡の看板と何故か軽トラの上にウルトラマン

諏訪関跡

甲州街道相模川に向かい標高を下げながら進みます。相模川の支流である境川にかかる境沢橋を渡り山梨県に入ります。すぐ先に桂川にかかる境川橋を渡ると神奈川県に戻ってしまうので(ややこしい(;^_^A)渡らずにUターンの様に県道520号の坂を登っていきます。坂は乙女坂と言うそうですが、この坂の上りは結構きついです(;^_^A。

坂を上っていくと周辺の山々と相模川、中央道が良く見え、中道道はすごい場所を通り抜けているのが良く解ります。

乙女坂からの景色

諏訪番所

諏訪は甲州の東端にあり相模国との境にあります。なんで、この辺りを諏訪と言うのかと思うと、この先に諏訪神社がありました。

諏訪関跡

江戸時代前の戦国時代、甲州武田氏と相模国北条氏の戦いが幾度となく繰り広げられており、その名残りが現在の旧甲州街道に残されています。

諏訪番所は戦国時代前期に設置されたと見られており、合戦時、甲州武田氏の防衛の機能を果たしたそうです。江戸時代以前は甲州武田氏と相模国北条氏が何度も対立を繰り返している為、両国の間を通る道はなかったとありますので、甲州街道の元になる道はありませんでした。

江戸時代に入り、甲斐国は徳川の親藩となり代々の城主は徳川家で、甲州街道甲府城までの将軍の避難路を想定して作られています。諏訪番所は戦国時代に防衛のために造られましたが、江戸時代以降は関所の役割として使われ、明治4年に廃止されました。

 

諏訪神社

1142-43年(鎌倉時代の少し前)にこの地の一族の氏神として創建されるが、1213年に一族が滅亡したとあります。その後、諏訪大社御霊の分霊をうけ再建されたのが諏訪神社諏訪神社なので、祭神は諏訪大社の神様である建御名方命

疱瘡神社と塚場の一里塚

さらに先に進み中央道を渡った先に疱瘡神社があり、奥に塚場の一里塚があります。

疱瘡とは天然痘の事で、歴史的に世界中で何度も大流行をしている死の病でしたが、1980年にWHOが根絶宣言をしています。神社は江戸時代初期に建立されており疱瘡の神様が祀られています。

疱瘡神社と奥にある一里塚と思われる塚

塚場の一里塚は江戸より18番目の一里塚であり、甲斐国の東端になります。塚の上にはカヤの木が植えられていたそうです。

 

17上野原宿

上野原宿は江戸から甲斐国に入った最初の宿場であり、規模が大きい宿場です。

江戸時代の1742年から1907年まで市が立つ賑わった宿場町でした。この辺りの地域である上野原市富士吉田市、西桂町、都留市大月市の農家では絹の生産が盛んであり、江戸をはじめ多くの商人が甲斐絹を買い付けに来たそうです。上野原宿も何度か大火に見舞われたそうですが、街道沿いには宿場の面影が残っています。

本陣門と国道沿いの屋号がある建物

本陣1、脇本陣2、旅籠20、商家250

国道20号を歩けど、本陣跡などは見当たらないです。脇本陣跡とされているのがホテルルートインの敷地あたりとありますが、特に何もありません。本陣は国道20号より少し入った場所にあり、現在は個人のお宅ですが本陣門があります。

 

上野原名物の酒まんじゅう

上野原宿を歩いていると酒まんじゅうのお店を数件見かけます。どうやら上野原名物のようなので購入してみようと老舗の風格が漂う永井酒饅頭店に少し並んで2個購入しました。他のお客さんは紙袋いっぱい購入されており、人気店のようでした。

店内には蒸しあがったたくさんの酒饅頭が出来ており、私は野沢菜とみそを購入。ふわっと日本酒の匂いがして、なんといっても生地が美味しかったです。結構、美味しい。地元の名物は食すべしと学びました(*^-^*)。

 

続きはこちら👇

kechico.hatenablog.com

瑞牆山 みずがき山自然公園から周回コース

 

 

瑞牆山日本百名山にも選定されている山梨県北杜市にある標高2230mの山です。

花崗岩が重なり合って聳え立つ山容は、言葉なく見入ってしまう程の迫力を感じさせられます。

みずがき山自然公園からの瑞牆山の山容

 

瑞牆山

日本百名山、山梨百名山でもある山で、花崗岩が風化侵食を繰り返して出来た山とあります。山の名前には諸説あることが多く、瑞牆山も麓の村では瘤岩と呼ばれていたとあります。確かに大きな岩がごつごつした山です。

平安時代に弘法大使が瑞牆山を開山したとあり、現在は登山道に書かれていない場所に梵字大日如来不動明王と書かれている岩があります。カンマンボロン岩と呼ばれており、近くには弘法大師が修行されたと言われている洞窟も残っているそうです。

 

ゴツゴツした岩からなる瑞牆山ですが、登山道はあまり険しくなく比較的安全に登れる山です。登山道は岩場が多く、鎖場やはしごもない訳ではありませんが、登山初心者にちょうど良い山とあり、多くの登山者で賑わっている山でもあります。

 

秩父多摩甲斐国立公園にあり、山の稜線は金峰山甲武信ヶ岳雲取山と続いています。どの山も標高2000mを超える山々である為、瑞牆山の登山口に向かうには山塊をぐるっと回り込むことになるので、首都圏から向かうと距離は遠くなります。

瑞牆山の麓にある富士見平小屋は、金峰山の登山道との分岐地点にあるので、小屋に泊ったり、テント泊をして、二座登る方も多いです。

 

瑞牆山山頂

瑞牆山山頂は大きな岩からなる岩場で断崖絶壁でもあります(;^_^A。

瑞牆山山頂の碑

山頂はあまり広くないことに加えて登山者も多い山でもあるので混んでいることが多いようです。この日もたくさんの登山者で賑わっており、山ご飯を楽しんでいる方もいました。

私が登った日はお天気が今一つで、雲が麓からあがってきて視界が悪くなることもありましたが、雲が流れると目の前には絶景が広がりました。

瑞牆山山頂からの景色

お天気が良ければ金峰山はもちろん、山頂にある五丈岩も見えますし、富士山、南アルプス八ヶ岳の眺めもとても素晴らしいとあり、この日は観えなくて残念でした_| ̄|○

瑞牆山は紅葉で有名な山ですが、登山道にシャクナゲも群生しているので季節を変えて再度訪れるのも良いかなと思っています。

 

不動滝

瑞牆山を県営林道小川山線終点のカサメリ沢駐車場より登ると不動滝があります。

カサメリ沢駐車場

カサメリ沢駐車場は不動滝に一番近い駐車場であり、瑞牆山はクライミングが盛んな山でもあるのでクライマーの方も駐車しているようです。林道は凸凹がない訳ではありませんが、普通の車で走れそうです(スポーツカーはやめておいた方が良いかも(;^_^A)。

みずがき山自然公園からカサメリ沢駐車場まではとても歩きやすい遊歩道と林道を歩きますが、ここから先は登山道になります。山頂近くまで登れば岩場もありますが、ほとんどは普通の登山道です。

不動滝

不動滝は、大きな岩を水が流れ落ちています。この日は水量が少なかったようです。

滝と言えば華厳の滝(日光)や袋田の滝茨城県大子町)のような水が勢いよく落ちる迫力がある滝を思い浮かべますが、不動滝は大きな岩を流れ落ちる繊細な滝です。このような繊細な滝はあまり見ないような気がします。落差も十分あるので迫力もあります。滝が流れ落ちる場所には水で侵食された滝つぼのようなお釜もあります。

不動滝までは沢沿いに登ってくるのですが、沢の水が飲めそうなくらい透明でとてもきれいです。

 

不動滝から瑞牆山山頂

夫婦岩

王冠岩

登山道にあるの大きな岩

瑞牆山山頂から富士見平小屋

富士見平小屋から山頂までの登山道は標高が高くなるにつれて岩場になります。大きい岩もあり鎖を付けてくれている場所もありますし、浮石もない訳ではありませんので気を付けて歩きます。岩がごろごろしています。

岩場の登山道

大ヤスリ岩

・桃太郎岩という岩もあるのですが、気付かずにスルーしてしまいました<(_ _)>。

富士見平小屋とテント場

富士見平小屋を少し降りた場所に水場があります。ここの水は湧き水であり、とても美味しい水です。マイボトルに汲んで持ち帰りました(*^-^*)。

富士見平湧水




登山口

瑞牆山

瑞牆山に登るにはバス停がある瑞牆山荘よりピストンで登山するのが一般的のようです。こちらの登山道は登山者が多いです。駐車場は県営無料駐車場があるようです。

 

みずがき山自然公園

公共交通機関は無いようですが、大きな駐車場とキャンプ場があります。ここからは瑞牆山を周回で登るコースが一般的です。瑞牆山をぐるっと回り込んで不動滝を経由して山頂に登る登山道はとても静かに山歩きを楽しめます。反対に、途中で瑞牆山荘からの登山道と合流して富士見平小屋を経由して山頂に向かう登山等は多くの登山者で賑わっています。

今回は、不動滝を経由して山頂に向かい、下山は富士見平小屋に向かい、途中から遊歩道を歩き自然公園に戻る山歩きをしました。早朝の駐車場は半分程度の込み具合でしたが下山後は満車で脇に駐車している車もたくさんありました。

みずがき山自然公園駐車場

 

大面岩下ボルダー駐車場

みずがき山自然公園駐車場の手前にある10台程の駐車場があります。クライミングの方には人気があるようです。瑞牆山を周回すればこの場所も通りますが、みずがき山自然公園駐車場まで歩いて10分強の距離なので、トイレもある公園駐車場の方が便利かもしれないです。どちらの駐車場も満車になり路肩などに止めている車がありましたので、早めの到着は必要かも。

大面岩下ボルダー駐車場

山歩きの詳しいデータはこちら👇

yamap.com

山ご飯とおやつ

寒くなりつつあるこの季節になると、暖かい山ご飯を食べたくなります(*^-^*)。

今回はインスタントの袋めんにしましたヽ(^。^)ノ。

黄色いトップバリューの袋めんは野菜たっぷり
ゆでたまごをトッピング

スープを飲んでしまえるように粉末スープと水の量を調節して作れるのは袋めんの良い所ですヽ(^。^)ノ。でも、カップ麺も美味しいと思う(*^-^*)。

おやつはコンビニのアイス(*^-^*)

 

交通機関と使ったお金💰

  • ガソリン代 約2500円
  • 高速道路 1650円(中央道調布ICから甲府南IC)
  • コンビニおにぎり2個 278円
  • コンビニアイス 198円
  • 合計 4626円

高速道路は行きのみ利用、中央道調布ICから甲府南ICで軽自動車深夜割引料金です。

瑞牆山に向かうと一番近いICは須玉ICなので、同条件で利用すると1950円になります。早朝の市街地は一般道路もスムーズに走るので途中より一般道路を走りましたが、そう考えると勝沼ICからでもよかったのではないかと思っており、料金は1420円となり、なんだか中途半端なことをしてしまいました(;^_^A。

帰りは国道411号大菩薩ラインで柳沢峠を越えて奥多摩を抜けて帰宅しました。休日の中央道上りは渋滞することが多いのですが、この道もかなり遠く時間もかかります(;^_^A。高速道路では、須玉ICから高井戸ICまで休日割引、軽自動車で2210円です。

 

 

 

 

私が訪れた日帰り温泉一覧

 

 

私は温泉が好きで、日帰り温泉に行くことがあります。

気が付くと、結構あちこちの温泉に行ったなぁと思い、記録としてまとめようかなと思いました。

ただ、入った温泉もいろいろあり、その時にblogに書いたこともあれば、書いていない温泉もあるなぁと思い、可能な限りで記憶を甦らそうとしています(;^_^A。

内容は私の個人の感想になりますし、訪れたタイミングでも込み具合などは変わりますので、ご理解の程よろしくお願いいたします<(_ _)>。

数年前の記録にさかのぼり、順次、内容を組み込んでいこうと思っています。

尚、浴室内の写真についてはHPよりお借りしています。

 

👇が一覧になります<(_ _)>

 

東京都

奥多摩地域

三頭山荘

もえぎの湯

都区外

河辺温泉 梅の湯

【河辺温泉梅の湯】公式|青梅、御岳山、奥多摩の日帰り温泉。お食事処、ご宴会。

 

都区内

前野原温泉 さやの湯処

東京前野原温泉さやの湯処

 

埼玉県

武甲温泉

秩父小鹿野温泉旅館梁山泊

秩父小鹿野温泉 梁山泊 【公式団体サイト】

 

丸山鉱泉旅館

おふろcafé 白寿の湯

おふろcafé 白寿の湯

 

さわらびの湯

 

極楽湯(和光店)

店舗数日本一の風呂屋 | 極楽湯

 

宮沢湖温泉 喜楽里別邸

満願の湯

天然温泉 真名井の湯 大井店

天然温泉 真名井の湯(まないのゆ)大井店:露天風呂|公式HP

 

所沢温泉 湯楽の里

さいたま清河寺温泉

天然温泉 七福の湯 戸田店

大滝温泉 游湯館

三峰神の湯

両神温泉薬師の湯

両神温泉国民宿舎両神荘)

埼玉スポーツセンター天然温泉

天然温泉 TOP|埼玉スポーツセンター

 

秩父川端温泉 梵の湯

秩父川端温泉 梵の湯|関東屈指の重曹泉

 

昭和レトロな温泉銭湯 玉川温泉

 

百観音温泉

百観音温泉 - 埼玉県東鷲宮 源泉かけ流し 美人の湯

 

 

群馬県

見晴館

星尾温泉木の葉石の湯

我妻峡温泉 天狗の湯

西の河原露天風呂

-草津温泉-西の河原露天風呂|トップ

 

伊香保露天風呂

伊香保露天風呂 | 渋川伊香保温泉観光協会

栃木県

喜連川早乙女温泉(きつれがわ そうとめおんせん)

喜連川早乙女温泉ホームページ

 

国民宿舎 かじか荘 庚申の湯

Home | 国民宿舎かじか荘【公式】日光足尾の天然温泉、東照宮から35分で美肌の湯!

 

山梨県

ほったらかし温泉

ほったらかし温泉 ほーむぺーじ

 

源泉かけ流し湯めみの丘

山梨日帰り温泉湯めみの丘

 

丹波山温泉 のめこいの湯

 

やまと天目山温泉

やまと天目山温泉|だれと行く、大菩薩|東京から日帰りで行ける百名山

 

三条の湯

 三条の湯 | 山梨県北都留郡丹波山村 | (有)丹波山観光

 

奥多摩源流 小菅の湯

 山梨県小菅村 大地からの素晴らしい贈り物 多摩源流温泉 小菅の湯

 

静岡県

木の花の湯 御殿場アウトレット日帰り温泉

 御殿場プレミアム・アウトレット敷地内【公式】日帰り温泉 木の花の湯

 

長野県

上諏訪温泉 宮の湯

 

山形県

鳥海温泉 湯楽里ゆらり

この時は、鳥海山へ登山のために出かけたのですが、あいにく天候不良であきらて下山しました。その時の残念感が満載で👇ブログにはお宿の事は書いていますが、温泉の内容はありません<(_ _)>。

鳥海温泉「遊楽里ゆらり」公式HP|鳥海山と日本海を眺める夕日の宿|山形県遊佐町

山梨日帰り温泉 湯めみの丘 山梨県甲斐市


 

 

私は山が好きで登山もします。

ここ最近は仕事の日数を増やしていたり、なんだかんだで山に行けておらずで、ぼーっと山が見える温泉に行きたいと思いました。

 

いろいろ探してみると、山梨県日帰り温泉日本百名山7座を観れる温泉があるのを発見したので、さっそく出かけました。

 

源泉かけ流しの湯 湯めみの丘

山梨県甲斐市

山梨日帰り温泉湯めみの丘

 

フォッサマグナの上に立地しているようです。

 

温泉

泉質はナトリウム塩化物泉とあります。

特に匂いを感じることもなく、お湯も無色ですが源泉かけ流しでもあるのでとても気持ちが良いです。お湯に少し塩分が含まれているような印象もあります。

源泉の温度が44.3度とあり、恐らく加温していないのかなと思う感じで、源泉のままの温度で浴槽に張られて冷めるのか、温度が低いです。その分長く使っていられますが、露天風呂は結構なぬるめのお湯でした。

とても良いお湯で長く疲れて気持ちが良かったのですが、もう少し暑くても良いかなと(;^_^A。

 

地元の方が多く来られているような印象ですが、お風呂も、洗い場も、更衣室も広めになっているので狭いとか混んでいるという感じはなかったです。料金も500円とお得価格なので、地元の方にとっては気軽に利用できます。

 

景色

富士山

百名山一座目は富士山です。

施設の前からとても良く富士山が見えるのですが、鉄塔と電線が…。

女性用の露天風呂からも富士山は見えなくもないのですが、裾野のみかな。たぶん、男性の露天風呂からは良く見えると思うのですが(;^_^A。

 

南アルプス

南アルプスはとても良く見えます。かなり景色は良いです(*^-^*)。

南アルプスの山々で百名山間ノ岳3190m、甲斐駒ヶ岳2967m、鳳凰三山観音岳が最高峰で2841mです。HPには白根三山とあり、白根三山とは北岳間ノ岳農鳥岳の三座の事なので、白根三山が見えていれば北岳も見えているのかと。そうするとここから見える百名山は一座増えるのですが、北岳は見えていないのか良く解らない(;^_^A。

 

八ヶ岳連峰



八ヶ岳として日本百名山になっていおり、最高峰は赤岳で2899mです。

駐車場からの写真ですが、女性用の露天風呂からでも見えます。

鉄塔が…(;^_^A

 

秩父山域



秩父山域は男女とも露天風呂から観えず、駐車場から見えるとあります。金峰山2599mと瑞牆山2230mが見えているそうですが、私には見つけられず…。

 

合計7座の百名山が見える場所です。

やっぱり、露天風呂につかりながら山を眺めたいと思います。

女性用露天風呂 南アルプス八ヶ岳がきれいに見えます。富士山はちょっとだけです(;^_^A。

男性用の露天風呂からはHPによると、どーんと富士山、南アルプスが見えるとありました。

 

登ったことがある山

この7座で私が登ったことがある山は三座です。

甲斐駒ヶ岳八ヶ岳(赤岳)、瑞牆山

 

 

入浴料金

もともとは大人700円、子供400円の設定になっているそうなのですが、コロナの影響でゆっくり滞在が出来ない事との説明があり、

入浴料は大人500円、子供300円になっていました。

 

 

使ったお金💰

  • ガソリン代 約1800円
  • 入浴料 500円
  • コンビニでサンドイッチとコーヒー 506円
  • 合計 2300円

 

 

kechico.hatenablog.com

前野原温泉 さやの湯処 板橋区前野町

 

 

私は温泉が好きで時々出かけています。

都心から遠く離れた温泉が好きなのですが、何せ距離があるとたどりつくまでに結構時間がかかってしまうので、たまには近くの温泉に行ってみようかと、板橋区にある前野原温泉さやの湯処に出かけました。

 

都内の温泉は黒湯であることが多いのですが、ここのお湯はうぐいす色の濁り湯という珍しいお湯です。源泉かけ流しの露天風呂もあります。

源泉かけ流し 
以下の写真はHPよりお借りしました。

硫黄の成分は無く、特徴は高ナトリウム塩化物強温泉です。匂いはほとんど感じないです。PHは7.4の弱アルカリ性です。塩分濃度はかなり強く、湯上り時には体が少しべたつく感じがあります。HPには成分が肌に付着し汗の蒸発を妨げるため保温性に優れているとあります。

都心近くにありながら、個性のある温泉に入られるのは穴場のような感じがします。

 

施設内はかなり広く、色々なお風呂が楽しめることもここの特徴でもあります。

寝ころび湯 深さ10センチ程度のお湯は張られています

私が大好き壺湯もあります👇。

露天風呂 イメージ

 

壺湯好きです(。・ω・。)ノ♡。プライベートスペースが完全に確保できるし、首と両手足をふちにひっかけて上を向いてお湯に浸かれるってなんという贅沢でしょうかヽ(^。^)ノ。源泉かけ流しのお風呂と壺湯はお湯が少し熱めになっているので良く温まりますし、寝ころび湯は体が10㎝程度しか浸からないのでゆったりと長くお湯に疲れることが出来ます。

露天風呂の脇にはベンチも各所に置かれているので、温まっては外気浴をすることを繰り返しながらゆっくりとお風呂を楽しむことが出来ました。

 

私は、日帰り温泉に行くと露天風呂に入ることが多いので内湯はほとんど入らないのですが、内湯も高濃度炭酸泉やジェットバス等いろいろな種類のお風呂があります。

お風呂の数の多さはかなり多いと思います。

内湯

 

サウナもドライサウナのスチームサウナの2か所あります。勿論水風呂もあります。水風呂の水温はきりっとした冷たさで気持ちよかっったのですが、浴槽の深さが浅かったです。水風呂は少ししゃがんで入ると肩まで疲れるところが多いのでちょっとびっくりしました。それでも、気持ち良いです。

 

色々あるお風呂を楽しんで、サウナと水風呂も堪能し、ゆっくりと疲れをいやしました。

 

場所柄、とても混むだろうなと思っていましたので、休日を避けて平日昼間に行きました。駐車場はほぼ満車の混みようで、人も多く来られていましたが、施設内が比較的広いので入りたいお風呂を堪能することが出来ました。お昼前に着いたことが良かったのか、お湯が疲れているような感じは少々あったかもしれませんが、許容範囲内でとても気持ち良かったです。土日であれば結構混むかもしれないので、人混みが苦手な私は平日が良いかな。

 

 

 

電車で行く場合は都営三田線志村坂上駅より歩いて8分とあります。

志村坂上ってどのへんだったかなと思いGooglemapを観てみると、志村の一里塚がある場所なので、国道17号中山道から少し西に入った場所になります。

志村の一里塚 都営三田線志村坂上駅 国道17号中山道沿い 
中山道歩きでの写真

車で行っても広い無料駐車場もありますし、道路の向かいある大きなイオンの駐車場も利用できます(5時間以内)。

私はイオンの駐車場に車を止めて帰りに買い物をして帰ってきました。なかなか、普段は大きなスーパーに行くことが無いので、大きなイオンに行くと迷子になりそうになります(;^_^A。

 

料金 大人1人

  • 平日 890円
  • 土日祝 1120円

www.sayanoyudokoro.co.jp

 

中山道歩きの見どころ 長久保宿

 

 

江戸時代、徳川幕府によって整備された五街道歩きを楽しんでいます。

kechico.hatenablog.com

その五街道のひとつである中山道を、日本橋から京都三条大橋に向かって歩き、いろいろ見どころはあるのですが、諏訪宿の先まで進んだ私が一番ここはすごい👀思った宿場が長久保宿でした。

長久保宿を含むblogはこちら👇

kechico.hatenablog.com

 

中山道 長久保宿

長久保宿は、中山道で江戸から27番目になる宿場であり、現在は長野県小県郡長和町になります。

中山道の最大の難所である和田峠と笠取峠間にある宿場であり、京都から善行寺参りへ向かう追分でもあったこともあり、当時の旅人にとっては欠かすことのできない重要な宿場の一つで、旅籠が43件もある比較的大きな宿場でもありました。

長久保宿 本陣 石合家(住宅のため一般公開はしていない)
脇本陣跡と高札場

しかし、今(2022年)より155年前の1867年、幕府が大政奉還を行い、時代は明治時代となり、近代化の波がやってきました。それに伴い道路や鉄道が整備されました。それまでは徳川幕府が整備した五街道が人・物の流れを担っていましたが、流れは鉄道や車が走る幹線道路へと変わっていきました。

江戸時代の交通の大動脈の1つであった中山道の多くは、国道や高速道路が並走し、現在でも人々の生活に欠かせなくなっていますが、長野県軽井沢町にある江戸から20番目の追分宿から29番目の下諏訪宿までの間には主要国道が並走していなく、鉄道も長野県佐久市佐久平駅が最後になっています。

明治時代に移った後も宿場の賑わいは続いたそうですが、道路と鉄道が整備されると次第に交通量が減りました。

 

交通が変わったことは地域にとても大きな影響を与えることになり、村は宿場から農村へと変わりました。住民の方々は大変な思いをされたかと思います。

しかし、その変化があったことで街の区画整備や道路整備や拡張などの工事の影響は少なくて済み(それも一概に良いこととも言えないのですが)、当時の街並みや建物が比較的よく残っているにも関わらず、観光開発されていないのが特徴と言えると思います。

 

このような時代背景の中、当時の面影がとてもよく残っており、また、建物を資料館として無料で一般公開されているのが長久保宿で、とても見ごたえがありました<(_ _)>。

 

資料館 吾一庵

資料館 吾一庵

明治初期の建物であり、兼農で馬を取り扱っていたと伝えられている住宅です。

玄関を入ると

土玄関入ってすぐに土間があり、建物の裏にある馬屋へ馬もここを通って出入りしていたそうです。当時の風景がよくわかります👀。

玄関入った土間の反対側には広々とした立派なお座敷があります。

養蚕もされていたとあり、二階には

当時の養蚕の道具と、裃(かみしも)

テレビで見る機会はありましたが、本物の裃を初めて見ました👀。絹で作られており、本当に当時のものなんだと。貴重なものです。立派お屋敷なので、裃を着る方が住まわれていたのかと。

裃をよく見ると、サイズ感に気づきます。当時の成人男性が着るために仕立てられていると思うと、身長162㎝の私ではちょっと短い感じです。体系も結構スリムかも。江戸時代の日本人の体格をリアルに感じる裃です(*^-^*)。

この写真もびっくり👀、江戸時代の宿場の風景や当時の服装を見られるとは大変貴重です。笠をかぶっており、和服で裾をめくりあげているのは旅人でしょうか。

まっすぐに街道が通る両脇にかやぶき屋根の建物が建っており、当時の宿場の様子がよくわかります。

 

旅籠 丸木や

1867年(慶応3年)建築

旅籠を営んでいたという丸木屋の建物は1867年建築であり、江戸末期、大政奉還の1年前の建物です。

155年も前の建物とは思えないぐらい立派です。

空き家となっていた建物を、貴重な江戸末期の建物の保存と宿場の活性化のために修復され、無料で一般公開されています。

 

一福処 濱屋

明治時代に旅籠として建てられたが開業に至らなかったと
玄関すぐの板の間と玄関から続く土間
当時の家具や道具に目を奪われます 囲炉裏もあります
高札場に掲げられた木の板(高札)と籠

 

笠と合羽の本物を初めて見ました。蓑と袈裟もあります。

当時の笠や合羽、蓑や袈裟、草鞋まで👀。150-160年前の実際のものを観れるのは大変貴重な体験でした<(_ _)>。

江戸時代とは

中山道日本橋から歩き始め、29番目の諏訪宿(の少し先)まで進みました。

その間にも多くの宿場が観光開発されていたり、当時の建物を資料館として一般公開されています。当時(江戸時代)とはどういう時代であったのかと思うと、建物や道具、衣類等にはとても関心があります。

 

昔は、今より不便であったかもしれませんが、人々は心豊かに生活していたのではないだろうか。

そう、思う時があります<(_ _)>。