ケチ子おばさんの空色ハット

山歩き 街道歩き その他お出かけの記録

中仙道⑩前編 和田宿、和田峠 (長野県小県郡和田町)

 

 

二泊三日中仙道の旅、最終日の記録です。

私は二泊三日で予定を立てましたが、佐久平から下諏訪までに交通機関が無いので、早朝の新幹線を利用して佐久平スタートであれば一泊二日で計画を立てる事も出来ると思います。

 

最終日の三日目は五街道最大の難所と言われていた和田峠超えを頑張りました。

和田峠五街道中の最高地点であり、標高1531mあります。当時の直近の宿場は、東(江戸)側が和田宿で、西(京都)側が下諏訪宿となり、その間の距離は5里半ありました。一里は約3.927㎞であり、江戸時代に人間が一時間で歩ける距離と定義されていました。ですので、距離で考えるよりも時間で考えるほうが街道歩きはイメージしやすいのかなぁとも思っていますが、それでも5時間半です。

頑張って実際に歩きましたので、データと共に記録したいと思っています(*^-^*)。

28 和田宿

江戸から28番目の宿場である和田宿は、現在の長野県小県郡和田にあります。長野県の中心にある筑摩山地の麓にあり、鉄道は無く、交通では国道142号線が通っており、下諏訪市に抜けて国道20号になります。

和田峠の入り口(出口?)でもあり、この場所で標高820m程の高さにあります。

本陣1、脇本陣2、旅籠28

宿場の規模としては中規模ですが、峠越えの荷駄を運ぶための伝馬役が最盛期には70件ほどあったとあります。

本陣は、幕末である1861年に焼失しましたが、数か月後に皇女和宮の降家時の宿泊地となっていたため、急遽再建されています。明治維新後は一部は寺などに移設され、残った居室棟は役場などに使用された後、平成元年に再建されています。

和田宿本陣

脇本陣は二軒あり、1軒の翠川家の御殿部分が残っています。本陣と同様に幕末の火災で焼失しましたが、同様に急遽再建されたとあります。皇女和宮の降家(1861年11月)の際には4日間で延べ8万人が通った記録があるそうです。凄い👀。

脇本陣翠川家 資料館になっている旅籠河内屋 風情ある街並み

和田宿の本陣が残っている付近とその周辺は、当時の建物が多く残されており、当時の趣がある街道となっています。

高札場跡 お蕎麦屋さん 観光トイレ

又、宿場とその周辺には湧き水が出ている所が数か所ありますので、水分補給しました。

湧き水  宿場内最後の自販機

和田宿に関しては幸せ信州 和田宿 今と昔 に詳しい内容があります。

 

和田峠

和田宿を過ぎるといよいよ和田峠に向かいます。旧街道を抜けると国道142号を歩きますので、車に注意しながら先に進みます。国道を歩いていると峠越えの最後の自販機がありました。

国道142号と最後の自販機

さらに先に進むと国道より少し入った脇道に唐沢の一里塚(👈一里塚の項)があります。唐沢の一里塚は街道が付け替えられたために保存状態がとても良く残っている一里塚なので必見です。

旧街道

国道142号は先で旧142号線と、新和田トンネルに向かう142号線に分岐します。その分岐した所の近くで旧中山道は山道になり、旧142号線に沿うように街道があります。

旧街道入り口と石仏群

街道は綺麗に整備されているのでとても歩きやすかったです。この日は草刈りしてくれていました<(_ _)>。

街道整備と刈り残してくれていたクリンソウ

接待(和田峠施行所)

山道となった旧街道をさらに進むとその先の旧国道142号に出た所に接待があります。

当時の江戸の呉服町の豪商が中仙道の難儀に幾分でも助けようと金千両を幕府に寄付した。その金の利子百両を碓氷峠の坂本宿と和田宿に五十両づつ下付し、1828年に設置された施行所の1つである。

11月から3月まで峠を越える旅人に粥と焚火を、牛馬には年中小桶一杯の煮麦を施行した。

1851年に山崩れで焼失した後1852年にこの場所に再建されて明治3年まで続けられた。

👆説明版より

国道142号と接待
接待の様子と水場 接待の湧き水

東餅屋

再度、旧街道の山道に入り、途中で広原の一里塚(👈一里塚の項)を通ります。接待からのこの区間は長坂と呼ばれていたそうです。その先で再び旧142号に出た場所に東餅屋跡があります。

東餅屋

東餅屋には五軒の茶屋があり餅を売っていた。寛永年間(1624年~1643年江戸初期)より一軒に一人扶持(一日玄米五合)を幕府から与えられ難渋する旅人の扶助にもあたっていた。幕末には茶屋本陣もおかれたが鉄道が開通すると共に往来も途絶え五軒の茶屋も店をたたみ、今は(ドライブイン以外に家は無く)石垣を残すのみである。説明版より。

確かに向かいにドライブインで餅を売っているかもしれない、営業しているか不明なお店がありました(;^_^A。

 

和田峠頂上

東餅屋の先でさらに旧街道に入るのですが、この辺りはビーナスラインと言う高原の自動車道路が走っており、その道路が旧街道を横切っている為人が通れるほどのトンネルがあるのですが、そこが通行止めになっていました。

この区間ビーナスラインで迂回するのですが、道を間違えてしまっています(;^_^A。通行止めの先で旧街道に無事に戻り、この先からは車道から離れて和田峠に向かいました。和田峠の頂上手前は結構急な傾斜ですので、はぁはぁ(*´Д`)言いながらでした。

中山道 和田峠 (標高1531m)

この辺りまでの旧街道は綺麗に整備されています。旧中山道和田峠で標高が1531mあり、和田宿の本陣辺りで標高が820m程なので、標高差は711m。

今回は民宿みやさん(標高約700m)からスタートしたので、和田峠頂上までの標高差は831m。時間は4時間40分距離17.1㎞でした。登山です。はい。

※今回の和田峠超え(民宿みやさんから中仙道と甲州街道合流点まで)の距離は28.9㎞、休憩含む時間は8時間33分でした。出発6時2分、到着14時35分。

和田峠の山頂には御嶽山の遥拝所があります。生憎この日は雲で展望はありませんでしたが、お天気の良い日には展望も良く御嶽山も眺めることが出来るのでしょう。

御嶽山 遥拝所

和田峠は、明治9年(1876年)東餅屋から旧トンネルの上を通って西餅屋にへ下る紅葉橋新道が開通した為、この峠を通る人は無くなり、古峠の名を残すのみである。とありました。かつては五街道の1つである中仙道で多くの人々が通った道は、とても静かな歴史道となっていました。

紅葉橋新道は今でもあるのかなと、Googlemapで旧トンネル付近を観てみましたが、旧トンネルの上を抜ける道は無くなっている様で、旧トンネルを抜ける旧142号になっている様です。

 

水場(和田峠下諏訪宿側)

和田峠を越えて少し急な山道を下った先に水場がありました。当時の旅人にとってはとても貴重な水場であった事だと思うと共に、汗をたっぷりかいている私にとっても貴重な水場で、美味しく水を頂きました。

峠を少し下った場所にある水場

和田宿から下諏訪宿に向かってはここが最後の水場になります。マイボトルにもたっぷりと補給しました。

ここまでの区間は山道であるので自販機はありませんが、水場が何か所かありますのでで、山水に抵抗が無く上手に補給すれば水に困ることはありませんでした。

 

西餅屋跡

西餅屋は和田峠下諏訪宿側にある「立場」(人場が休息する場所)でした。茶屋本陣二軒を含む四軒の茶屋がありました。幕末の合戦で焼失しましたがすぐに再建されたという。現在は曲の手(まきのて)と呼ばれる垂直な曲がりと茶屋跡が残っています。

西餅屋跡 向こうに国道142号が見えています

下諏訪宿までの道のり

浪人塚(和田嶺合戦跡)

峠越え 下諏訪宿側最初のトイレ

樋橋茶屋跡

木落し坂

諏訪大社の有名な御柱祭のクライマックスでもある木落し。その木落しが行われる木落し坂が旧中仙道脇にあります。

ご神木ではなく模擬御柱と急な斜面の木落し坂

御柱際に使われるご神木と同じ樹齢100年の樅の大木が設置されています。

 

ようやく見えた諏訪湖

和田峠をしきりに降りて、かなり進み民家が多くなってくるあたりに着た頃、ようやく諏訪湖が見えました。思わず声が出てしまいます。江戸時代の旅人も同じように声が出たのではないかと思う程の喜びを感じます。

諏訪湖と湖畔(下諏訪町)の街並み

 

一里塚

49里 芹沢の一里塚

国道142号が向こうに並走している、旧中山道和田宿の江戸寄り、街道の南東側に石碑があります。

芹沢の一里塚 長野県小県郡長和町和田上組

(和田宿)

50里 鍛冶足の一里塚

和田宿を京都側に抜けた先、国道142号を北西から南東に渡った場所に石碑があります。

鍛冶足の一里塚 小県郡長和町和田鍛冶足

右:諏訪街道、左:松澤歩道と石碑にあり、少し?と思いよく見てみると、この場所で旧中山道が国道142と交差しており、ちょっと間隔がある五差路になっています。江戸時代に国道はまだありませんので、地図で見ないようにすると同じ場所で道が二手に分かれており、確かに右が中仙道であり諏訪に向かっており、左はこの辺りの集落に向かう道になっています。

 

51里 唐沢の一里塚

唐沢の一里塚は中仙道が途中で一部路線変更したことにより山中に取り残されたもので、1831年(天保2年)には絵図面で路線から外れていたとあります。

植えられていた木は残っていませんが二基とも原型をとどめている貴重な一里塚です。

唐沢の一里塚 小県郡長和町和田唐沢
南側の塚と北側の塚
近くの石碑とお社 国道142からの入り口(京都側)

国道142号の南西側、国道からの分岐の江戸側、京都側それぞれに一里塚への看板などがあり、山中の整備された登山道を進んだ先、街道の両側に塚があります。

52里 広原の一里塚

ここも山の中に残る一里塚で片側の塚のみ残っています。どちらの塚か不明。冬の降雪期には峠から吹雪が吹き下ろし、一面雪の原になって埋もれてしまうと言われるこの辺りでは貴重な目印になったであろうと。

国道142号に沿う本格的な山道を進み、接待を過ぎて東餅屋との間、街道の南西側に1基の塚が残っています。

片側の一基が残存している広原の一里塚

(和田峠)

53里 西餅屋の一里塚

近くに茶屋が出来た事もありあまり利用されませんでした。明治時代には農地となり場所は特定されていませんとありました。

和田峠を下諏訪側に降り、国道142号を縫うように残っている旧中山道の山道の西餅屋を過ぎて、国道142号を渡り南西側になる旧中山道の山道を進み街道の北東側に石碑があります。写真の上に写っているガードレールが国道142号

西餅屋の一里塚 諏訪郡下諏訪町

54里 樋橋の一里塚

明治維新に取り壊されたとあり、現在は石碑があります。

しかし、ここはかなり解りづらい場所にありました。この辺りは道路が整備されており中仙道は国道142号になっています。その道路沿いではなく、脇道の会社に入る私道を進み、あぜ道のような道を進んだその先にありました。道が間違っていないか不安になりますが所々に会社の物であろう看板が設置されています。そして、国道からかなり離れるのと道が下っているので、ここまで歩いてきて疲れているにもかかわらず頑張れる体力が必要でした(;^_^A。

この辺りの旧街道は道路整備によりなくなってしまっている様子です。

樋橋の一里塚(住所不明)と国道142号の入り口

中仙道歩きのデータはこちら👇

yamap.com

中仙道⑩後編に続く…

記事が長くなってしまったので、全編と後編に分ける事にしました。

後編もよろしくお願いします<(_ _)>👇👇👇

kechico.hatenablog.com