ケチ子おばさんの空色ハット

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甲州街道③前編 14与瀬宿~17上野原宿

 

甲州街道歩きの三回目は江戸より14番目の宿場である与瀬宿(神奈川県相模原市)から24番目の宿場の駒橋宿(山梨県大月市)までの34,8㎞を歩きました。

甲州街道は、江戸から甲府までを表街道、甲府から下諏訪までを裏街道と呼ばれていたとあり、表街道の区間に多くの宿場が置かれています。この日に歩いた距離は確かに長かったのですが、宿場は11か所にもなってしまったため、ブログは分けて書きました。

 

14与瀬宿

JR相模湖駅より出発し甲州街道国道20号に進みます。西に少し歩くと与瀬宿本陣跡があります。以前は与瀬宿本陣と書かれた木柱があったようですが、見つけられませんでした。この場所には明治天皇御小休所でもあり石碑があります。明治天皇所縁の場所でもあので、恐らく本陣だろうなろ思っていると、先の吉野宿にある説明版に与瀬宿本陣と書かれています。

与瀬宿本陣跡

 

本陣1、脇本陣0、旅籠6

甲州街道の宿場は全体に規模が小さく、与瀬宿も小さな規模の宿場だったようです。与瀬宿本陣は明治13年明治天皇が休憩された場所で、食事は先の吉野宿で取られたそうです。

 

慈眼寺と與瀬神社

与瀬宿本陣跡を敷地に沿って曲がると慈眼寺と與瀬神社の前を旧甲州街道は通るのですが、中央道が参拝道を横切っており、中央道にかかる歩道橋を渡るようになっています。

左)鳥居の向こうに歩道橋がある與瀬神社
右)旧甲州街道は中央道をくぐる

與瀬神社を過ぎると旧甲州街道は中央道をくぐるように崖に造られた歩道を通り山の方に向かいます。

 

貝沢橋と与瀬の一里塚

国道20号をかすり、旧甲州街道は山に向かう林道に入ります。この辺りは貝沢という沢で、その沢にかかる貝沢橋を渡り、与瀬の一里塚に向かうのですが、Googlemapにこの間の旧甲州街道が書かれていなく、どこから沢に降りるのかが解りませんでした。仕方がないので、いったん戻り先に進んで下諏訪宿方面より与瀬の一里塚に戻り先の貝沢橋にたどりつき、江戸側から沢に降りる場所まで戻りました。江戸側の林道から沢に降りる山道の入り口は結構解りにくいです(;^_^A。

林道の終点。石碑がります。ここより左にUターンするように林道を進み、沢側に設置されている緑の金網のフェンスが途切れた先5m程の場所に、沢に降りる山道があります。

左)貝沢橋 右)与瀬の一里塚跡

 

15吉野宿

山の中腹を緩やかに少し標高を上げながら西に歩きます。相模湖を眺め、途中に秋葉神社があったり、石仏が祀られている街道を進みます。この辺りから関野宿の手前まで間には比較的新しく甲州古道と地名が書かれた木柱があるので、それらを見つけながら歩くのも楽しいです。

相模湖  石仏  甲州古道の木柱

さらに先に進むと旧甲州街道は突然南に曲がり、相模湖に向かって下ります。中央道を渡り、現在では車道に整備されている関係で道路がくねくねしている場所には、山道でGooglemapに乗っていない旧街道が残されています。木柱が立てられているので比較的見つけやすいです。

中央道を渡ると写真を撮ってしまう(;^_^A。右は吉野宿高札場跡。木柱があります。

 

本陣1、脇本陣1、旅籠3

吉野宿に入る手前で旧甲州街道国道20号に合流します。国道20号の脇に本陣跡、旅籠などの史跡があります。

吉野宿本陣の建物は江戸末期に木造5階建てで偉容を誇っていたとあり、本陣の説明版に当時の写真が描かれていますが、明治29年の大火で焼失しています。大火を免れて現存しているのが本陣の土蔵であり、こちらは三階建てであり江戸時代に建築された可能性があるそうです。現在は国道20号のすぐ脇に建てられていますが、国道20号の歩道整備で曳家で現在の場所に移転されているそうです。

吉野宿本陣跡と現存する吉野宿本陣の土蔵

本陣跡の向かいには藤屋という屋号で旅籠がありましたが、明治29年の大火で焼失し、現在のふじやは明治30年に建築されています。再建後は農業と養蚕業をされたとあり、二階は蚕室とあり、建物は週末の日中に見学できます。

ふじや(見学可能)と、とても参考になる案内図

16関野宿

藤野の一里塚 江戸より17番目

国道20号脇に樹齢推定300年の榎があります。この辺りが17番目の藤野の一里塚の場所でもありますが、看板に説明はありません。吉野宿にあった看板を良く見直すと一里塚の記載と榎の写真があるので他も調べると藤野観光協会が発行されている甲州古道案内図にも書かれているので恐らくここで間違いないと思われます。場所が国道20号すぐ脇のガードレール外にあるので交通量が多いので気を付ける必要があります。

藤野の一里塚とJR中央本線を歩道橋で渡る旧甲州街道

甲州街道は進んだ先で古道が残っており、その先でJR中央本線を歩道橋で渡ると関野宿になります。

本陣1、脇本陣1、旅籠3

関野宿も宿場の規模は小さいですが、相模国最後の宿場であり、この先は諏訪番所を通り甲斐国である上野原宿になるので重要視されていたそうです。宿場は明治21年の大火とその後の二度の大火にて、宿場の面影は残されていません。本陣跡の看板があります。

関野宿本陣跡の看板と何故か軽トラの上にウルトラマン

諏訪関跡

甲州街道相模川に向かい標高を下げながら進みます。相模川の支流である境川にかかる境沢橋を渡り山梨県に入ります。すぐ先に桂川にかかる境川橋を渡ると神奈川県に戻ってしまうので(ややこしい(;^_^A)渡らずにUターンの様に県道520号の坂を登っていきます。坂は乙女坂と言うそうですが、この坂の上りは結構きついです(;^_^A。

坂を上っていくと周辺の山々と相模川、中央道が良く見え、中道道はすごい場所を通り抜けているのが良く解ります。

乙女坂からの景色

諏訪番所

諏訪は甲州の東端にあり相模国との境にあります。なんで、この辺りを諏訪と言うのかと思うと、この先に諏訪神社がありました。

諏訪関跡

江戸時代前の戦国時代、甲州武田氏と相模国北条氏の戦いが幾度となく繰り広げられており、その名残りが現在の旧甲州街道に残されています。

諏訪番所は戦国時代前期に設置されたと見られており、合戦時、甲州武田氏の防衛の機能を果たしたそうです。江戸時代以前は甲州武田氏と相模国北条氏が何度も対立を繰り返している為、両国の間を通る道はなかったとありますので、甲州街道の元になる道はありませんでした。

江戸時代に入り、甲斐国は徳川の親藩となり代々の城主は徳川家で、甲州街道甲府城までの将軍の避難路を想定して作られています。諏訪番所は戦国時代に防衛のために造られましたが、江戸時代以降は関所の役割として使われ、明治4年に廃止されました。

 

諏訪神社

1142-43年(鎌倉時代の少し前)にこの地の一族の氏神として創建されるが、1213年に一族が滅亡したとあります。その後、諏訪大社御霊の分霊をうけ再建されたのが諏訪神社諏訪神社なので、祭神は諏訪大社の神様である建御名方命

疱瘡神社と塚場の一里塚

さらに先に進み中央道を渡った先に疱瘡神社があり、奥に塚場の一里塚があります。

疱瘡とは天然痘の事で、歴史的に世界中で何度も大流行をしている死の病でしたが、1980年にWHOが根絶宣言をしています。神社は江戸時代初期に建立されており疱瘡の神様が祀られています。

疱瘡神社と奥にある一里塚と思われる塚

塚場の一里塚は江戸より18番目の一里塚であり、甲斐国の東端になります。塚の上にはカヤの木が植えられていたそうです。

 

17上野原宿

上野原宿は江戸から甲斐国に入った最初の宿場であり、規模が大きい宿場です。

江戸時代の1742年から1907年まで市が立つ賑わった宿場町でした。この辺りの地域である上野原市富士吉田市、西桂町、都留市大月市の農家では絹の生産が盛んであり、江戸をはじめ多くの商人が甲斐絹を買い付けに来たそうです。上野原宿も何度か大火に見舞われたそうですが、街道沿いには宿場の面影が残っています。

本陣門と国道沿いの屋号がある建物

本陣1、脇本陣2、旅籠20、商家250

国道20号を歩けど、本陣跡などは見当たらないです。脇本陣跡とされているのがホテルルートインの敷地あたりとありますが、特に何もありません。本陣は国道20号より少し入った場所にあり、現在は個人のお宅ですが本陣門があります。

 

上野原名物の酒まんじゅう

上野原宿を歩いていると酒まんじゅうのお店を数件見かけます。どうやら上野原名物のようなので購入してみようと老舗の風格が漂う永井酒饅頭店に少し並んで2個購入しました。他のお客さんは紙袋いっぱい購入されており、人気店のようでした。

店内には蒸しあがったたくさんの酒饅頭が出来ており、私は野沢菜とみそを購入。ふわっと日本酒の匂いがして、なんといっても生地が美味しかったです。結構、美味しい。地元の名物は食すべしと学びました(*^-^*)。

 

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