甲州街道歩き③前編に続く中編です。
18番目の宿場である鶴川宿~野田尻宿前編はこちら👇
甲州街道歩きの記事はこちら👇
谷を一気に抜ける中央道
上野原宿から国道20号を進み本町交差点の先で旧街道は南に分かれます。住宅街を進んだ先で旧甲州街道は北に向かい、北から南に向かっている国道20号を歩道橋で渡り鶴川宿へ進んでいきます。
国道20号は桂川(相模川)に沿って中央本線と共に西に向かいます。旧甲州街道は中央道に沿うように談合坂方面を進むのですが、桂川にの支流である鶴川を越えなくてはならないのです。鶴川はそんなに大きな川ではないのですが、あたりの地形が幅が広い谷になっているのでいったん川岸に降りて再度登り返すことになります。そんな幅が広い谷になっている場所を中央道はどうなっているのかと思うと、
長い橋が架けられており一気に走り抜けます。橋は500m程もありそうです。詳しくは解りませんが500mと仮定して時速80㎞で走ったならば、所要時間は0.375分となり、22.5秒です👀。車で22.5秒で走り抜けられる区間を旧街道を歩くと約30分かかりました。文明を感じました<(_ _)>。
18鶴川宿
本陣1、脇本陣2、旅籠8
鶴川宿は小さな宿場でしたが、鶴川の川越を伴う場所にあるので宿泊に関しては充実していたとあります。1921年(大正10年)の大火で建物は焼失したとありますが、江戸側より鶴川を渡った先にある街並みは、一直線に通る街道とその両側に家々が立ち並ぶ宿場の雰囲気を残しています。
旧甲州街道は宿場内を抜けると南に大きく曲がり山を登り尾根近くまで進むと中央道が沿うように通っています。
大椚の一里塚
間の宿である大椚宿に向かう途中に大椚の一里塚跡の石碑があります。
説明版に、実際の一里塚の場所はこの場所から江戸側に戻った場所にあったとあり、現在ではその場所は残ってないですが江戸時代の絵図で確認できているそうです。Wikipediaには18里とありますが19里の様です。
間の宿 大椚宿
甲州街道は比較的宿場間の距離が短く作られているのですが、鶴川宿と野田尻宿の間(距離は1里3丁で約4,2㎞)に間の宿として大椚宿があったようです。間の宿は正式な宿場で無かった事もあるのか、Wikipediaにも記録がなく、資料となるものも見つからなかったのですが、旧甲州街道沿いに木柱があります。
参考)我妻神社脇に公衆トイレがあります。
長峰砦跡
大椚地区を抜けると旧甲州街道は中央道脇になり、進んだ先に長峰砦跡があります。
長峰砦跡はやや小規模の中世の山城跡で、武田信玄の家臣丹後守が甲斐国の東口を相模国北条の侵略から守るために監視をしていたとありますが砦に関しては不明なことも多いとあります。この場所は当時の交通の要所であり、水にも恵まれていたことがこの場所に砦を築いた理由の様です。
砦があったであろう場所のほぼ真上を中央高速道路が建設され元の形を留めなくなってしまっていましたが、中央道の拡張工事が行われることになった際に平成7年から3年間にわたり発掘調査をされています。
発掘された甲州道中
その際に江戸時代の甲州道中とみられる道路の跡が尾根筋を縫うように断続的に発見されました。道幅は1m余りと狭く、地形に沿って蛇行や起伏が激しい険しい道であったとあります。
説明版に当時の遺構と中央道を重ね合わせた図が書かれており、発掘された甲州道中も書かれています。長峰砦跡の遺構を縫うように甲州道中が発見されているのをみて、砦は江戸時代には必要なかったものと思いました。戦国時代が終わったことを実感させられます。
長峰砦跡を過ぎて、中央道を北に渡って野田尻宿に向かいます
19野田尻宿
本陣1、脇本陣1、旅籠9
野田尻宿も小さな規模の宿場でした。明治19年の大火でほとんどが焼失したとあります。
野田尻宿は現在の中央道の談合坂SA下り線のすぐ北側にありますが、宿場の方が標高が低いので高速道路の向こう側になるSAは見えないです。
お玉ヶ井
旅籠で働く美しい女中のお玉さんの恋物語だそうですが、お玉さんは竜であり、長峰池の主である龍神路結ばれたそうです。お玉さんは念願の恋が実ったお礼にと、水不足であった野田尻の一角に澄んだ水をこんこんと湧き出させたそうです。
西光寺
824年に建立された真言宗の寺院であり、後の鎌倉時代に臨済宗に転宗した由緒ある寺院とあります。
萩野の一里塚
江戸から20番目の一里塚であり、甲斐国に入って塚場の一里塚、大椚の一里塚に続く3番目の一里塚です。北側の塚には平松という老松があったそうです。
一里塚の木柱が立てられている場所が山道のカーブでもあるためか、説明版は甲斐国側に少し進んだ先にありました。