江戸時代に造られた五街道と聞くと、一番最初に頭に浮かぶのは「東海道」である人が多いと思う。私にとっても、東海道新幹線や東海道線など、東海道は馴染みがある言葉です。
東京に住んで25年にもなりますが、都内でも色々な場所があります。
その中で、私が住んでいる地域は、甲州街道や中山道に近い事もあり、東海道や神奈川県にあまり縁がありませんでした。なので、五街道歩きをして初めても中山道や甲州街道から歩きはじめていました。
しかし、街道歩きと聞くと「東海道」を思い浮かべる人が多いのではないかと思いなおし、それではと、東海道も歩きはじめることにしました。
五街道の中で日本橋から出発し京都三条大橋に向かう三街道は、東海道、中山道、途中に中山道に合流する甲州街道です。いづれも京都の三条大橋に向かうというイメージがあるので、西に向かうと思ってしまいます。
甲州街道だけは、日本橋を出発して皇居の周りを半周したら、西に向かって進んで行きますが、東海道と中山道は違っていました。
東海道は日本橋を出発すると南へ向かい、中山道は北に向かって歩きはじめます。日本橋を出発して、同じ京都の三条大橋に向かうのに、お互いに背中合わせで進んで行くという、なんだか変な感覚になってしまいます。
そんな状況の中、中山道では周辺地域に馴染みがあったこともあり、何とか頭の中の地図と確認しながら歩き進めたのですが、馴染みのない東海道では頭の中に地図もなく、どうしても西に向かっていくという固定概念にもとらわれてしまい、何度も大きく道間違いをしてしまっています。それゆえに、実際に歩いた距離は長くなり、時間も長くかかってしまっており、何だか心がへこんでいます。
とはいえ、このblogを書いている今の時点では藤沢宿まで進んでいるので、この先もう少し頑張って相模湾沿いに歩くようになれば、東海道はイメージ通りに西に向かって進むようになるので、無事に歩き進めると良いなと思っています。
東海道を歩いている際の道間違いは、あまりにも大きく間違っており、とても恥ずかしいので、私が使っているYAMAPの軌跡では修正しています。
日本橋から品川宿
日本橋を出発すると東海道と甲州街道は南に向かって歩きはじめます。甲州街道は歩きはじめてすぐに右(西)へ曲がりますが、東海道はそのまま南へと進み、京橋から銀座の大通りへと向かいます。
当時から交通量が多かった東海道ですが、現在でも銀座、浜松町と都市化が進んでいる街を抜けていくので、江戸時代の面影を残すような建物や史跡などは残っておらず、都心のビル街を抜けていきます。
そんな東海道の始まりですが、江戸時代の後の近代化に伴って変わる街の様子を残しているモニュメントは所々残されています。
新橋の名前の由来になったのが、汐留川に架けられていた「新橋」。その親柱が残されている。現在では川は埋め立てられて橋ありません。
新橋を抜けて浜松町のあたりに来れば、東京タワーが近いのですが、国道15号の脇にはビルがたちならんでいるので見える場所が無いと思っていると、ちらっと見える場所がありました。
この先の三田まで行けば、東京タワーのビュースポットがあるのですが、この時はそれを知らずに1人で東京タワーを見れたことを喜んでいました。
東京に住んでいても、東京タワーを見れる場所がそんなになく、わざわざでかけないと見れないのが東京タワーだったりします。
1里 金杉橋の一里塚(当時からなかったとも言われている)
東海道に造られた一里塚で最初の一里塚は金杉橋と言われていますが、当時からなかったとも…。
麻布十番から芝公園の脇を沿うようにして東京湾に流れる古川は、当時の絵図と同じ場所を流れており、その川を旧東海道である国道15号が渡る橋が金杉橋として残っています。資料などはありませんが、恐らくこの辺りが江戸から一里であったと思われます。
札ノ辻交差点と東京タワー
国道15号(第一京浜)にある札ノ辻交差点は、その名前からも江戸時代を思わせられます。札ノ辻は、江戸内に造られた6か所の高札場の1つでしたが、1683年にこの先にある高輪に移動されました。
旧東海道はまっすぐ先へと続いていますが、この交差点からとてもきれいに東京タワーが見えます。
高輪大木戸跡
江戸時代中期の宝永7年(1710年)に建てられた木戸(門の様な物?)であり、夜間は占められて江戸の町の治安維持と交通規制をしていました。
札ノ辻にあった高札場が移転されたのがこの場所であり、江戸六大高札場(日本橋南詰、常盤橋外、浅草橋内、筋違橋内、半蔵門外)の1つでした。
江戸時代後期には木戸が廃止されており、この場所には石垣が残っていますが、甲州街道に造られた四谷大木戸跡は何も残されていなく石碑があるのみです。
山手線に新しく出来た品川ゲートウェイ駅前の工事中を通りすぎ、品川駅を通り過ぎた先で、JRの線路の上に架かる八ツ山橋を渡ります。
八ツ山橋は、ゴジラが最初に上陸?した場所であり、最初に破壊した公共建造物とも言われています。実際は沢山のJRの線路に架かる橋であり山手線、京浜東北線、東海道線等が走っており、電車が好きなら立ち止まって見ていたい場所でもあります。新幹線はこの先の品川駅手前で地下に入るそうなのですが、かろうじて車両の一部を見る事が出来るようです。たぶん。
二里 品川・八ツ山の一里塚(当時からなかったと言われている)
東海道の二番目の一里塚は品川・八ツ山の一里塚とありますが、この一里塚も当時からなかった記録があるそうです。
八ツ山の地名は、この辺りに張り出している岬が8あったことに由来しているので、正確な場所は解らないですけれど、この辺りが二番めの一里塚の場所であったと思います。
写真を撮り忘れてしまっていますが、品川宿の街歩きマップや東屋、トイレに水道もあるので休憩に便利です。また、品川宿に入っても街道沿いに公園やトイレ、水道が何か所か整備されています。
1、品川宿
東海道最初の宿場は品川宿です。江戸から二里と言う程近い距離でもありましたが、江戸の玄関口でもあり賑わった宿場でもありました。
本陣1、脇本陣2、旅籠93
江戸まで二里と言う近さである為か、ここに停まる大名が少なかったのか本陣は一軒しかありませんが
品川宿の旅籠が93と多かったのは江戸四宿(中山道:板橋宿、甲州街道:内藤新宿、日光街道:千住宿)の1つであり、飯盛り女が多く賑わったとあります。
当時の記録では、板橋宿の旅籠が54軒、千住宿が55軒、内藤新宿の旅籠が24軒であり、品川宿の規模の大きさが良く分かります。
宿場の大きさだけを比較するならば、東海道の七里の渡しにある宮宿が247件で最大の規模であり、同時に日本一の宿場でもありました。
現在の品川宿は長い商店街になっていますが、史跡跡には説明版が立てられており、公園やトイレも整備されており、歩きやすい街になっています。
江戸六地蔵 品川寺
江戸時代、江戸の入り口に「江戸六地蔵」が作られ、その一つが旧東海道沿いの品川寺にあります。
当時六体造られたお地蔵様ですが、千葉街道入り口に造られたお地蔵様は明治の神仏分離令で取り壊されてしまったので、現在残っているのは5体です。東海道入り口のお地蔵様は、その中でも像高が一番大きく2.75mあり、唯一、頭に笠をかぶっていないお地蔵様です。
なみだ橋と、鈴ヶ森遺跡
幕府は、江戸の町の外れの二か所、東海道鈴ヶ森と日光街道千住宿外れの小塚原に処刑場を造りました。
処刑者の家族は、鈴ヶ森の手前にかかる浜川橋まで見送りにやってきて、涙を流して別れた為、浜川橋はなみだ橋と言われるようになりました。