ケチ子おばさんの空色ハット

山歩き 街道歩き その他お出かけの記録

中仙道⑨ 塩名田宿、八幡宿、望月宿、茂田井間の宿、芦田宿、長久保宿 (長野県佐久市~長和町)

 

 

中仙道歩き2泊3日の旅。2日目は長野県佐久市にある佐久平駅前のホテルを朝8時前に出発しました。

岩村田宿を超えると公共交通機関が無くなる

中仙道歩きをすると、今まで並走していた道路や鉄道が佐久平を最後に無くなります。次に主要幹線道路や鉄道の駅があるのは約60㎞先の下諏訪宿になります。かなり遠いです。

途中に峠がありますが、一日に30㎞歩くとして2日はかかりますし、途中で電車も高速バスも無いため、宿泊することになります。この区間の後半には五街道の難所とまで言われた和田峠が控えているので峠に一番近い場所で泊まりたいと計画をしたいのですが、この区間は道路も鉄道も無いという事は人の流れが無いので、宿泊できる宿は限られます。

 

この区間での宿泊

一つ目は長久保宿を和田宿の間にある民宿みや。もう一軒は長久保宿にある浜田屋旅館です。浜田屋旅館さんはコロナ渦で営業をお休みされた経緯があるそうなので確認が必要と思います。この辺りの徒歩圏内で他に宿はなさそうなので、面倒でも必ず予約をした方が良いです。お宿の方は中仙道歩きの方によく利用されているようなので、対応もとてもスムーズです。

 

23 塩名田宿

日本橋から23番目の宿場である塩名田宿は、現在の長野県佐久市塩名田にあります。

千曲川の東側にある宿場で比較的規模が小さい宿場ですが、千曲川の増水により川止めになることが多く、連泊を余儀なくされる為、重要な宿場でもありました。

宿場の江戸側の入り口 高札場は現在でも現役です

当時の風情がある街道

本陣2、脇本陣1、旅籠10

本陣丸山喜兵衛家 問屋本陣

二件あった本陣の内の一軒は食料品のお店になっている様で、もう一軒は焼失したとありました。本陣、脇本陣、問屋などの重要な職は丸山家一族で行われたとあり、江戸時代を感じます。

お滝通り

千曲川の東岸にある塩名田宿は下宿、中宿、河原宿と三か所に分かれて呼ばれており、本陣などの要所は江戸側の下宿にあったようです。千曲川の氾濫を考えての事かな?

下宿と中宿は千曲川の川岸より小高い場所にあります。現在は高い場所をつなぐように国道が付けられているのですが、旧中山道千曲川を渡って向い岸に抜ける為、河原に向かって降りていきます。少し下った場所に河原宿と呼ばれる集落があり、その集落を抜ける旧中山道をお滝通りと呼ばれている様です。

中山道は河原宿に向かって下る

正面の角屋さんは茶屋だったそうです。木造の三階建ての住宅が並ぶこのエリアも風情があります。明治時代には花街で賑わったそうです。

塩名田宿の河原宿お滝通り 松が風情あります

お滝通りの名前の由来となったお滝があり、当時は豊富な清水が湧き出ていたそうで、旅人にとってもとても貴重な清水でした。この水を利用して佐久鯉の養殖もおこなわれていたそうです。

清水が湧いていたお滝

明治時代には花街や鯉の養殖等で賑わった場所であることは、立派で風情がある住宅が残されている事を納得させられます。

河原宿を先に進むと千曲川にでます。江戸時代の旅人はここからは、架けられていれば橋を渡り、橋が無ければ船の渡しで千曲川を渡り、先に向かいました。

塩名田宿から見る千曲川と日本百名橋である中津橋

千曲川に橋が架けられたこともありましたが、洪水の度に流されたとあります。明治時代には、船をつないでその上に舟橋をかけたとあり、船をつなぐ際に使った船繋ぎ石が残っているそうです。

 

24 八幡宿(やわたじゅく)

24番目の八幡宿は前宿である塩名田宿から千曲川を挟んで京都側に約1里の場所にある川止めになった時の待機宿でもありました。また、千曲川沿いの米の集積地でもあった為、江戸時代初期に整備されている宿です。現在は長野県佐久市八幡になります。

大日如来

千曲川を京都側に渡りしばらく歩くと、街道より少し入った場所に大きな大日如来の石仏が祀られています。

大日如来 向こうには浅間山見えます

仏像と浅間山の構図を観ると何かしら関係があるように思いますが、詳細は解りませんでした。江戸時代初期の様です。

 

八幡神社

八幡宿に入ると北側に宿場名の由来となった八幡神社が祀られています。

八幡神社と隋神門

かなり立派な隋神門であり、建立は1843年(天保14)年の江戸末期で、小諸藩主によって建てられている。この辺りは千曲川下流である小諸幡になるのですね。

 

本陣1、脇本陣4、旅籠3

八幡宿内は宿場の面影が殆ど残っていませんが、本陣門は残っていました。

本陣の住宅跡外観と本陣門

八幡宿を出ると京都側に碑があり、県道から分岐しています。先の笠取峠までは11.9㎞と、まだまだ先です。

八幡宿京都側の碑 ちょっと珍しい祝言夫婦道祖伸

その少し先に道祖伸が祀られています。街道歩きをしていると古くから祀られて大切にされている石仏を観ることが多くあります。

この、道祖伸は夫婦道祖伸なのであり、安曇地域の道祖伸は日本神話の神様の衣装を着ている事が多いのですが、宮廷貴族の衣装を着ている珍しい道祖伸とありました。

 

25 望月宿

望月宿手前の方まで来ると、国道142号線が旧中山道に沿うようになってきます。

瓜生坂

望月宿と書いた真新しい常夜灯を過ぎる辺りより、瓜生坂に入ります。瓜生坂を登るとすぐに一里塚があります(👈一里塚の項)。瓜生坂は標高700-800m程ある尾根の低いであろう場所を抜けていますので坂道でありますが標高差で100mもありませんので普通に歩いて抜けられます。

瓜生坂の石碑 瓜生坂を超えた京都側にある長坂の石仏群

道路は車道に整備されていますが、京都側は旧中山道が山道として残っており歩いて抜けられます。

 

本陣1、脇本陣1、旅籠9

望月宿も比較的小さい宿場でありますが、古い町並みが残っています。

本陣と脇本陣 資料館もあります

宿場内に資料館が作られており、少し入った所に観光トイレもあります。

 

 茂田井間の宿

望月宿と芦田宿の間に茂田井間の宿があります。宿場間の距離は1里8町とそんなに離れてはいないのですが、1742年(寛保2年)の大洪水で望月宿が大きな被害が出たため、望月宿に加宿を申し出たが却下された経緯があるそうです。当時は中仙道の大通行の際に休憩所として機能しました。

 

酒造業

この地域は良質な米の産地でもあった事より、1688年(元禄2年)創業の蔦屋、現:大澤酒造、1868年(明治元年)創業の叶屋、現:武重本家酒造が現在でも酒造業をされています。

大澤酒造と武重本家酒造

武重本家酒造さんは映画「たそがれ清兵衛」のセットが作られたそうです。

高札場と石割坂

茂田井間の宿には二か所の高札場跡が残っています。

また、宿場を抜けた先の坂は、中仙道を通すときに大きな岩があった為、岩を割って街道を通したことより石割坂と呼ばれています。石割坂に茂田井の一里塚があります(👈一里塚の項にあります)。

高札場

26 芦田宿

江戸から26番目の芦田宿は、長野県北佐久郡立科町にあります。

宿場内に当時の面影は強く残っていませんが、本陣の他に茶屋6軒、商科2軒、医師3軒、髪結2軒、按摩1軒と細かく説明版に書かれていました。

芦田宿の江戸側の常夜灯

本陣1、脇本陣2、旅籠6

立派に残っている本陣
二軒あった脇本陣跡と庄屋跡

笠取峠

街道を歩く人々にとって難所であった峠。笠取峠は標高900mであり、峠の頂上からの浅間山が絶景で笠をとって仰ぎ見たや、夏の暑い時期は疲れと暑さで思わず笠をとった等、所説あるようです。現在の笠取峠の頂上は、国道を通すときに山を削ったので、当時の頂上ではないとあり、見晴らしは良く無いです。

峠を挟む宿場の間の道は、現在では国道142号線が通り抜ける峠道になっています。旧中山道は芦田宿(江戸)側は笠取峠の松並木に沿って歩き、長久保宿(京都)側は国道142号線を縫うように歩きます。

笠取峠の頂上 国道142号線脇にある石碑

国道に沿うように歩きますが、国道ではない旧中山道を歩くこともあるのか、この区間はお店も自販機も無かったと思います。当時の茶屋跡が二件残っており、松並木にある茶屋跡は東屋のみですが、峠を越えてた先には現在もお店があり、旧街道を歩いていて食事が出来そうなお店はここだけだったように思います(;^_^A。

松並木にある東屋、茶屋跡と現在も営業していたお店

 

笠取峠の松並木

芦田宿から笠取峠にかけて約2㎞、幕府により約753本の赤松の苗を植えられました。国道が整備されましたが、脇にずれたためほとんどが当時の趣で残っており、現在でも約150本の樹があるそうです。

街道沿いに植えられた赤松 樹齢300年になる樹もある

中仙道笠取峠だけでなく、幕府は各街道を改修した際に松や杉を植えて並木を作っています。夏は旅人に木陰を作り、冬は雪でも歩きやすくしたとあり旅人への配慮を感じます。実際、日差しが強かったこの日では、日陰の有難さを身に沁みました。

 

27長久保宿

27番目の宿場である長久保宿は長野県小県郡長和町にあります。この日のここまでの宿場もそうですが、この辺りは明治に入り日本が近代化する際に主要道路や鉄道が通らなかった地域であり、現在でも地方国道である142号線しか通っていません。

その為もあるのか、長久保宿では当時の貴重な品々が残されており、無料で一般公開されています。これまでの中仙道歩きの中では一番の見どころだとと思いました。

本陣1、脇本陣1、旅籠43

宿場の規模は比較的大きく、その理由は難所である和田峠と笠取峠の間にあることがあります。宿場の形にしては珍しく途中で直角に曲がっているのは依田川の氾濫にて宿場の一部が被害を受け、再建する際に川岸より離れた場所に作った為とあります。

本陣 岩合家住宅

中山道中で現存する最古の本陣遺構とも言われているそうで、構築は17世紀後半と推定されているそうです。また岩合家4代目当主に真田幸村の娘が嫁がれているとの事👀。

脇本陣跡と高札場、長久保宿京都側の碑

長久保宿の資料館(無料)のblogはこちら👇

kechico.hatenablog.com

 

一里塚

 (岩村田宿)

43里 平塚の一里塚(発見できず)

ここはWikipediaには記載されていないのですが、GoogleMapには平塚の一里塚跡で乗っていました。実際にその場所に行くと、宅地造成されているので、区画整理されてしまったのかもしれません。

GoogleMapの場所の向かいに荘山稲荷神社があり、その場所が少し小高く盛り上がっているのが気になりました。芭蕉の句碑もあります。しかし、このすぐ近くに中部横断自動車道が作られているので、その影響でなくなってしまったこのもあるかもしれないです。

佐久平塚荘山稲荷神社 小高い場所にありすぐ後ろに高速道路があります。

 (塩名田宿)

44里 御馬寄の一里塚

木の碑があります。長野県佐久市御馬寄

 (八幡宿)

45里 瓜生坂の一里塚

瓜生坂の一里塚南側 長野県佐久市望月

北側は道路で半分削られています。

 (望月宿)

 (茂田井間の宿)

46里 茂田井の一里塚

長野県北佐久郡立科町茂田井 この塚は作ったのかな?

両方の塚に榎の根があったと天保の記録にあるそうです。

 (芦田宿)

47里 笠取峠の一里塚

笠取峠の松並木同様に一里塚にも赤松が植えられています。

かなり大きい松の木であり、大木が当時の面影を残しています。現存しているものとはっきりと書かれていませんが、48番目の一里塚の看板に笠取峠に当時の一里塚が一基現存していると書かれていました。赤松が植えられており、現存している大変貴重な一里塚です。

48里 四泊の一里塚

国道142号わきに看板があります

ここには地元の人々に親しまれた榎の大木がありましたが、国道の改修工事により1960年(昭和35年)に伐採されたとありました。

 (和田宿)

 

街道沿いのあれこれ

公衆電話

岩村田宿の先の街道沿いの立派なお屋敷の門の脇にあった公衆電話。

公衆電話

作られた当時には大変貴重な物だったのだろうと思う。衆の字が少し違うのは気のせいかな。

 

犬神家の一族で使われた旅館

犬神家の一族での那須ホテル 芦田宿内

食事🍴🍺と宿泊🛏️

朝食は、宿泊していたビジネスホテルの無料朝食を頂き、昼食は簡単にパンで住ま線ました。夕食は民宿でビールと共に頂きました。

食事🍴

お宿とお布団

布団の寝心地が良かったです。民宿の為、音などホテルと違う配慮は必要でした<(_ _)>

中仙道歩きのデータはこちら👇

  • 出発7:45 到着16:11
  • 所要時間 8時間28分 距離27.6㎞
  • 平均歩行時速 約3.4㎞

yamap.com

 

宿泊と使ったお金💰

宿泊 民宿みや(長野県小県郡長和町大門653)

  • 宿泊料金(1泊2食) 11500円+🍺2本1540円=13040円
  • コンビニ(飲料、軽食等) 948円 
  • 自販機 110円
  • 合計 14098円