江戸時代、徳川幕府によって整備された五街道歩きを楽しんでいます。
その五街道のひとつである中山道を、日本橋から京都三条大橋に向かって歩き、いろいろ見どころはあるのですが、諏訪宿の先まで進んだ私が一番ここはすごい👀思った宿場が長久保宿でした。
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中山道 長久保宿
長久保宿は、中山道で江戸から27番目になる宿場であり、現在は長野県小県郡長和町になります。
中山道の最大の難所である和田峠と笠取峠間にある宿場であり、京都から善行寺参りへ向かう追分でもあったこともあり、当時の旅人にとっては欠かすことのできない重要な宿場の一つで、旅籠が43件もある比較的大きな宿場でもありました。
しかし、今(2022年)より155年前の1867年、幕府が大政奉還を行い、時代は明治時代となり、近代化の波がやってきました。それに伴い道路や鉄道が整備されました。それまでは徳川幕府が整備した五街道が人・物の流れを担っていましたが、流れは鉄道や車が走る幹線道路へと変わっていきました。
江戸時代の交通の大動脈の1つであった中山道の多くは、国道や高速道路が並走し、現在でも人々の生活に欠かせなくなっていますが、長野県軽井沢町にある江戸から20番目の追分宿から29番目の下諏訪宿までの間には主要国道が並走していなく、鉄道も長野県佐久市の佐久平駅が最後になっています。
明治時代に移った後も宿場の賑わいは続いたそうですが、道路と鉄道が整備されると次第に交通量が減りました。
交通が変わったことは地域にとても大きな影響を与えることになり、村は宿場から農村へと変わりました。住民の方々は大変な思いをされたかと思います。
しかし、その変化があったことで街の区画整備や道路整備や拡張などの工事の影響は少なくて済み(それも一概に良いこととも言えないのですが)、当時の街並みや建物が比較的よく残っているにも関わらず、観光開発されていないのが特徴と言えると思います。
このような時代背景の中、当時の面影がとてもよく残っており、また、建物を資料館として無料で一般公開されているのが長久保宿で、とても見ごたえがありました<(_ _)>。
資料館 吾一庵
明治初期の建物であり、兼農で馬を取り扱っていたと伝えられている住宅です。
玄関を入ると
土玄関入ってすぐに土間があり、建物の裏にある馬屋へ馬もここを通って出入りしていたそうです。当時の風景がよくわかります👀。
玄関入った土間の反対側には広々とした立派なお座敷があります。
養蚕もされていたとあり、二階には
当時の養蚕の道具と、裃(かみしも)
テレビで見る機会はありましたが、本物の裃を初めて見ました👀。絹で作られており、本当に当時のものなんだと。貴重なものです。立派お屋敷なので、裃を着る方が住まわれていたのかと。
裃をよく見ると、サイズ感に気づきます。当時の成人男性が着るために仕立てられていると思うと、身長162㎝の私ではちょっと短い感じです。体系も結構スリムかも。江戸時代の日本人の体格をリアルに感じる裃です(*^-^*)。
この写真もびっくり👀、江戸時代の宿場の風景や当時の服装を見られるとは大変貴重です。笠をかぶっており、和服で裾をめくりあげているのは旅人でしょうか。
まっすぐに街道が通る両脇にかやぶき屋根の建物が建っており、当時の宿場の様子がよくわかります。
旅籠 丸木や
旅籠を営んでいたという丸木屋の建物は1867年建築であり、江戸末期、大政奉還の1年前の建物です。
155年も前の建物とは思えないぐらい立派です。
空き家となっていた建物を、貴重な江戸末期の建物の保存と宿場の活性化のために修復され、無料で一般公開されています。
一福処 濱屋
当時の笠や合羽、蓑や袈裟、草鞋まで👀。150-160年前の実際のものを観れるのは大変貴重な体験でした<(_ _)>。
江戸時代とは
中山道を日本橋から歩き始め、29番目の諏訪宿(の少し先)まで進みました。
その間にも多くの宿場が観光開発されていたり、当時の建物を資料館として一般公開されています。当時(江戸時代)とはどういう時代であったのかと思うと、建物や道具、衣類等にはとても関心があります。
昔は、今より不便であったかもしれませんが、人々は心豊かに生活していたのではないだろうか。
そう、思う時があります<(_ _)>。